2023年1月28日土曜日

合衆国海軍通史 私家概要 1-2 アメリカ、その歴史について(1)

 1.2.アメリカ、その歴史について

 アメリカ海軍の祖とも言える大陸海軍についてお話をする前に、アメリカ革命戦争に至るまでの経緯を改めてご説明しましょう……それは地形と海洋から始まるお話、なのですが。


 新大陸へと続く道

 世界史という点で俯瞰するとアメリカ大陸が発見されたのは現在、西暦一〇〇〇年ごろにはヴァイキングが北のニューファンドランドを発見して……と言われており、大変興味深い物語なのですが、現在のアメリカ大陸に続く物語として語るなら、やはり人類が海洋をある程度自由自在に航行できる術を持ち始めた西暦十五世紀中頃から触れる形となるでしょう。

 この時代、世界の中心となりつつあった欧州世界は日本で言うところの(実はこう呼ぶのは日本国内だけなのですが)『大航海時代』の時代となります。

 ポルトガルとスペインが発見した地が無条件に領土と見なされるために世界各地へ船乗りが展開していくこの時代、すでに地球は球体であり一周することも可能と考えられていましたが、これを信じたコロンブスが一四九二年に(Christopher Columbus)が西へ進んでインドだと思って到着していたのは、現在のアメリカ南部、キューバの東側にある西インド諸島の小さい島、サン・サルバドル島でした。これがアメリカ大陸発見の第一歩でした。

 もっとも、この新大陸がコロンビア、ではなくアメリカと呼ばれるのはこのコロンブスの発見より幾ばくか後、イタリア・フィレンツェ出身の探検家にして地理学者でもあるアメリゴ・エスブッチ(Amerigo Vespucci)が南米大陸、ブラジルの発見などを綴った旅行記(論文とも)『新世界』が元となったからで、彼の名をラテン語読みした、アメリクス・ウェスプキウス(Americus Vespucius)のアメリクスを女性形にしてアメリカ、と呼ばれるに至ることになります。

 とはいえコロンビアの名は現在もアメリカ大陸を指す尊称として、ワシントンDCの正式名がコロンビア特別区(District of Columbia,DC)にも使われているのはご存じでしょう。

 

 大西洋における海流の図。

 この図はその後の話に関わる重要なものになりますので置いておきます。

 これを見るとスペインを出たコロンブスが、どうして西インド諸島、現在のキューバへとたどり着いたのか理由もわかります。

 アフリカ東岸から西方へと向かう北赤道海流は、カリブ海、メキシコ湾へと流れ込み、そしてフロリダ海峡を通ってアメリカ大陸東海岸に沿うように北上し。ノースカロライナ州ハッテラス岬で東へと進路を向け、大西洋を横断する北大西洋海流となってノルウェー沖とスペイン西岸へと別れる一方でスペイン西岸へ向かう海流はアフリカ東岸を南下し、再び北西岸海流へと合流しメキシコ湾流となります。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:North_Atlantic_Gyre.png (2023/01/16)


 当時の帆船によるイギリスから北米大陸への航海日数は、有名な〈メイフラワー〉号で六六日間となっています。ちなみに船の大きさは、色々所説あるようですが、最大全長で33メートル、全幅7・5メートルと想定されていますが、この船に一〇〇名前後の乗客と三〇名前後の乗組員が乗っていたと言われています。本来二隻で向かう予定が一隻になったため明らかに過剰な人員が乗っていた模様で、過酷な船内環境は結果的に乗客、乗組員、それぞれ半数を失うほどでした。ちなみに帰途は概ね一か月、三〇日でイギリスまで戻っています。これも海流を見ると理由がわかります。

 実はこれでも当時として見れば早いほうでした。後に説明する最初の入植地、ジェームズタウンへ向かった三隻の船の航海日数はなんと四か月近くを費やしています。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Mayflower_in_Plymouth_Harbor,_by_William_Halsall.jpg (2023/01/23)


 さて、大航海時代も折り返しを迎えつつある十六世紀の中頃から、この発見された新大陸への植民が積極的に行われるようになります。

 スペインは現在の中南米、そしてフロリダ半島などを中心に植民することになりますが、一方、欧州の小国であった英国も先達に習って海外植民地の獲得を目指すことになりました。

 これは切実な理由も一つありました。というのも、当時のイギリスにおいて一五四〇年にはもう国内のほぼすべての森林資源が枯渇しており、鉄鋼業の発達はそれに追い打ちをかけていたのです。英国議会は森林資源の保護を目的に森林保護法を制定したのですが、効果は少なく一五四〇年から七〇年までの二十年間で槇の値段は倍にまでなり、貧しい人々は冬を乗り越えることなく凍死したと記述があります。

 その中で一五八〇年代に英国国内で北米大陸の豊かな森林資源を目的とした植民地化が叫ばれます。まぁ、その言い方が「多くの怠け者を雇って、天然資源を採取し、英国に輸出する」という、なんとも明け透けな言い分だったのは確かなのです。

 彼らが目標にした北アメリカ大陸への入植は幾度かの失敗を経て、ようやく十七世紀初頭の一六〇七年、英国はテューダー朝ジェームズ一世時代に成功しました。

 ジェームズ一世の特許状(許可状)を得て設立されたバージニア会社による植民地、ジェームズタウンは現在のバージニア州のチェサピーク湾、パンプトン・ローズと呼ばれる地域から川を遡った場所に開拓の一歩を記すことになります。

 三隻の船に分乗した移民達は、一六〇六年の一二月二〇日にロンドンを出航。なんと翌年四月二六日にチェサピーク湾に到着。ジェームズ川を遡上、入植地に上陸したのが五月一三日でした。入植者は一五〇名足らずと記されています。

 現在、ジェームズ川河口周辺はハンプトン・ローズと呼ばれ、この地には合衆国海軍ノーフォーク基地や、現在も艦艇を建造しているニューポートニューズ工廠がある一帯となっています。天然の良港であることがこのような開発を生んだわけです。


https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Location_of_jamestown_virginia.jpg (2023/1/16)


2023年1月20日金曜日

合衆国海軍通史 私家概要 1-1 合衆国海軍創設日は

「合衆国海軍通史 私家概要」としてアメリカ合衆国海軍の歴史をなぞっていきたいと考えています。またもや不定期連載となるでしょうが、生暖かく見ていただければ幸いです。

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アメリカ合衆国海軍の歴史の始まりはいつと定められているのか。

 少しでも歴史に造詣のある方であれば、即座にアメリカ革命戦争(独立戦争)だと答えるでしょうか。

 事実、NHHC(海軍歴史遺産センター)のサイトでは、その起源(Origin)を一七七五年一〇月一三日、大陸会議(Continental Congress)が二隻の武装商船を準備する通達を出した日が、海兵委員会(Marine Committee)を設置、大陸海軍(Continental Navy)が誕生した日であり、アメリカ海軍創設日としています。

 ただ、これもよくよく読むと、一九七五年、時の海軍作戦部長、ズムウォルト提督が海軍創設記念日として定めた――という記述があるので、はて、この「歴史」は昔からのものではないのかも。という目にもなります。実際には後に説明する一七八九年、合衆国憲法が設置され「海軍を養うこと」とされた後に先行して、税関監視艇部 (United States Revenue Cutter Service)が設置されていますから、少しでも遡りたくて……ではないのか、といういささか穿った目にもなります。

 実際問題、大陸軍はまだしも大陸海軍、大陸海兵隊は革命戦争後、一度は廃絶され、艦艇もすべて売り払われていますから、直接の繋がりはないのです。

 一七八九年の憲法制定とするか、あるいは議会が正規に艦隊に必要な六隻のフリゲート建造を承認した一七九四年一月二日をアメリカ海軍創設の日と考えるべきかとは思いますが、アメリカ海軍がそう言っているのであれば、それで良しとすべきでしよう……。

 ただそうはいっても、大陸海軍を無視して、六隻のフリゲート艦建造を承認するまでにいたる話を無視するというわけにもいきません。

 なぜアメリカ合衆国は、大陸海軍を廃絶し、そしてまた海軍として新たに設立することになったのか。そして極端に浮き沈みの激しかった一九四五年までの合衆国海軍を語るには、アメリカ建国以前から話をしなければ中々伝わらない点もあるのではないかと思います。

 とはいえ、これを史家でもない自分が語るにはいささか持て余しかねない物語となります。何しろアメリカの成立はつまるところ世界史の一部として当時の国際状況に密接に絡み合っているからなのです。

 新大陸がアメリカと呼ばれるようになり、東海岸沿岸に広く散らばる十三植民地連合(ユナイテッド・コロニーズ)が如何にして団結し戦い建国することに至るまで、何故彼らが『革命』と呼ぶのか……そこへ至るまでの物語は出来るかぎり圧縮してご説明しましょう。


 ……それでも幾分長い物語となるのですが。


「提督たちの反乱 私家概要」刊行によせて

 一昨年の年末から昨年初頭にかけて連載させていただいた「提督たちの反乱」についてのお話が同人誌となってはや半年をすぎました。

おかげ様で同人誌(ウスイホン)にも関わらず410p越えという分厚い本になったものの、無事初版及び増刷分も概ねすべてが頒布され、皆さんのお手元に届いた形となりました。

……ここだけの話、わりと「どひゃー」と転がりそうな方からもご感想をいただいておりまして、背筋を伸ばす一方、恐縮しきりのところもあります。

さて、blogでの掲載を一時終了させていただいたのは内容が大きく変化したから、という理由もありました。内容は大きく変化しているのもありましたが。

まずはblog版の連載を読んでくださりありがとうございました。

遅ればせながら、皆さまへとお礼申し上げます。