2023年2月18日土曜日

合衆国海軍通史 私家概要 1-4 アメリカ革命戦争(一七七五年~一八八三年)大陸海軍への道

 1.4.アメリカ革命戦争(一七七五年~一八八三年)大陸海軍への道

アメリカ革命戦争序盤~ボストンを巡る戦い


 一七七五年四月、アメリカ革命戦争の火蓋が、レキシントン、そしてコンコードで始まります。これがレキシントン・コンコードの戦い(Battles of Lexington and Concord)でした。ボストンに展開するイギリス軍正規兵が、ボストン郊外にあるコンコードのマサチューセッツ植民地民兵の武器庫を制圧しようとするのですが、その途中にあるレキシントンで先手をうってアメリカ側植民地民兵と衝突することになります。

 さて、誰が先に発砲したのか。当時のアメリカ側の絵画などではイギリス軍が先に発砲したのだとされているのですが、現在では双方どちらが先に発砲したのか、双方の証言では相対した双方の軍勢正面からではなく、その後方の発砲音が聞いたせいで、その後方の発砲音そのものもどちらとも、相手側の後ろから、という意見のせいで不明なところもあります。

 その後、アメリカでは色々この戦いを賛美、あるいは称える動きはあるのですが、日本人からしてみると、戦場の緊張状態がもたらした偶発的な発砲が衝突を呼んだ……ありがちなケースかもしれないな、としか見えない点もあります。

 ただもっともこの段階では小競り合いの規模でしたが、その先にあるコンコードでも植民地民兵の襲撃にあい、イギリス軍は撤退を開始します。しかしその撤退も追撃する植民地民兵の襲撃を受けることになるのですが。この戦いの結果、ボストンへとイギリス軍は撤退する一方で、衝突を知った各地からは民兵達が集結しボストンを包囲することになります。

 五月には民兵側は重火器でもある大砲を獲得するため、ボストンから二五〇キロほど北西にあるカナダに近いシャンプレーン湖、その南端にあるタイコンデロガ砦を無血で占領。百門以上の大砲を獲得します。

 六月、ボストン島とチャールズ河を挟んで対岸にあるチャールズタウン半島の丘、バンカーヒルをめぐっての戦いが繰り広げられました。ここから大砲を設置してボストンを砲撃されることを恐れたイギリス側は河を渡ってマサチューセッツ湾植民地民兵らが構築した野戦陣地へと攻め込み、犠牲を払いつつチャールズタウンを獲得することに成功します。

 これら一連の衝突を聞いた、バージニアで農園を営んでいたジョージ・ワシントン、マサチューセッツのジョン・アダムズら、のちに建国の父と呼ばれる者達が革命戦争に身を投じることになるのでした。

 六月十四日、改めてフィラデルフィアで開かれた第二次大陸会議において大陸軍(Continental Army)の設立が決まり、翌日、総司令官にジョージ・ワシントンが選ばれることになりました。

 かくしてここに十三植民地群によって形成される植民地軍と北米大陸に展開するイギリス軍との戦いが繰り広げられることになります。

 これが一七七五年から一七八三年まで八年近く続く長く厳しい戦いになると、予期していた人物は誰もいなかったにちがいありません。


……ここで革命戦争の経緯を語り続けるとますます長くなるので、一旦、海軍の話へと筆を替えたいと思います。



大陸海軍(Continental Navy)という名の『間に合わせの海軍(Adhoc Navy)』

 さて、いよいよもってこの海軍らしいお話へと突入します。

 植民地群が如何にして海軍を保持するようになったのか。その実体はどうであったのか。

 この一七七五年現在、彼我の海軍兵力はどうだったのかを確認してみます。


 イギリス王立海軍は七年戦争の余波で、艦艇の更新が進まず満足に使える戦列艦は四〇隻にも満たない状態でした。ただ革命戦争勃発時点で、カナダのハリファクスから東海岸南端のフロリダに至る沿岸には(戦列艦以外のフリゲートなども含めてと思われますが)二十八隻の軍艦があったとも書かれています。 

 一方、植民地軍側にはまともな軍艦を保持しているわけではありませんでしたから、ボストンのイギリス王立海軍側はほぼほぼフリーハンドで海上を行き来きできたため、ボストン包囲はあまり効果的ではありませんでしたし、後に説明するような私掠船の航行を許しても概ね制海権はイギリス側にあったと言え、この状態は革命戦争が転換点を迎える一七七八年まで続く状態でもありました。

 この様な状態でしたからイギリス本国の海軍卿、第四代サンドウィッチ伯爵ジョン・モンタギュー(John Montagu)からは、植民地群の『反乱』を制圧するには海軍による海上封鎖が効率的だという意見もあったようですが、当時のイギリス政府首相であるフレデリック・ノース(Frederick North)には受け入れられませんでした。

 イギリス側としては、植民地の反乱はあくまで一部であり、少なからずのイギリス支持派(王党派、トーリー、あるいはロイヤリストとも呼ばれていました)が存在すると考えられており……事実、この革命戦争全般において植民地に住む人々の中でも少なからずのイギリス支持派の存在は大きな焦点ともなってくのですが……あくまで反乱制圧という形で、陸軍投入とそのための支援に海軍は使用されるままだったのです


 一方、植民地側はどうだったのか。

 ボストンを巡る包囲戦の最中、海上の警戒などのためにワシントンは地元にあった漁船(スクーナー)に武装を乗せ小型の武装商船とし、言わば陸軍所属の海上船隊(salt water navy)とも呼べるものを組織しています。

 この他、シャンプレーン湖でも湖上船隊(flesh water navy)が活動していました

 ちなみに後の一七七六年一〇月には、このシャンプレーン湖に展開するイギリス、植民地軍双方の湖上船隊による衝突(バルカー島の戦い、Battle of Valcour Island)が発生。

 イギリス側が勝利したものの、ここに至る戦いまでに双方艦艇を整備するなど時間を必要としたせいで植民地軍側もタイコンデロガ砦に立てこもったところで季節は冬となったためにそれ以上のカナダ方面に展開するイギリス軍の南下を押さえることに成功します。

 当時のアメリカ大陸における交通網として、湖上と河川は重要なものでした。

 ボストン北西、現在のバーモント州、ニュヨーク州、そしてカナダのケベック州に接するシャンプレーン湖は五大湖ほど大きくなくとも南北二百キロ、最大幅二十三キロもある巨大なもので、その南はハドソン川となってニューヨークから大西洋と繋がっている非常に重要なものでした。アメリカ植民地軍も、イギリス軍側も早々に船を建造して湖上船隊同士の戦いが繰り広げられましたが、ここでもアメリカ植民地軍側が敗北しています。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:BattleOfValcourIsland_watercolor.jpg (2023/01/31)


 この他、各植民地でも水上兵力整備への動きが始まっていました。

 開戦劈頭、幾つかの海上での小競り合いの結果をうけマサチューセッツ湾植民地議会は、海上の防衛を目的として植民地海軍の設置を決定します。最終的に一〇隻のスループ艦(十四~十六門の砲を搭載した二本マストの艦艇)の建造が認められ、これが後のマサチューセッツ湾植民地海軍(民兵)となりますし、これらの流れは各植民地群、ペンシルべニア、メリーランド、バージニア、ロードアイランド、そして南北カロライナでも見られ、彼らは独自の海軍民兵(船隊)へ準備なり編成が行われ、内海や淡水湖の警備や沿岸を航行するイギリス側商船の拿捕を目的としていましたが、明らかに十三植民地群の海上兵力は劣勢なままでした。

 ちなみにペンシルベニア植民地は海に面していないじゃないかというのはアメリカの地理に詳しい方なら気がつくでしょうが、ペンシルベニア海軍は大陸会議が置かれたフィラデルフィアに繋がるデラウェア湾からデラウェア川の防衛が目的でした。


 このような中で一七七五年の秋に行われた第二回大陸会議において海上兵力の整備が俎上にあがります。

 ボストンをいくら陸地側で包囲したところで自由に海上を行き来されてはたまらないですし、イギリス本土からカナダのケベックに送り込まれる軍需物資を手に入れたいという意見から、武装商船と海軍の設立を検討しだしたのです。

 ちなみにこの時点で先にもご説明したイギリス航海法は無視され、植民地の港は他国に解放されることになっていたこと、合わせて後にご説明する私掠許可については後程触れさせていただきます。

 もっとも反対意見も当然のごとく大きく、メリーランド代表のサムエル・チョイス(Samuel Chase)は「アメリカ艦隊を作り上げようなどとはまったくもって気狂い沙汰だ」と述べたとされますが、一方、バージニア代表のジョージ・ワイス(George Wythe)は、ローマ人とてカルタゴの戦いで初めて海軍を作り、カルタゴ海軍を打ち破ったではないかと反論したと書かれています

 大陸会議は一〇月一三日に、二隻の武装商船を準備する通達を出し、続けて二隻の準備も通達します。これが〈カボット〉〈アンドリュー・ドリア〉、そして〈コロンバス〉〈アルフレッド〉となる一方で、ジョン・ラングトン(John Langdon)、サイラス・ディーン(Silas Deane)、クリストファー・ガスデン(Christopher Gadsden)の三人による海軍設置のための必要な手立てを講ずるため海軍委員会(Naval Committee)を設置することも通達しました。

 のちに海軍委員会にはジョン・アダムス(John Adams)ら四名が加わり、七名体制となりますがすぐに三名が離脱しているとあります。


ジョン・アダムズ(1735-1826)

言わずと知れた合衆国第二代大統領。絵画は1792~3年の彼と書かれています。

『アメリカ海軍の父』とも書かれている書籍もあります。弁護士でもあり、アメリカ合衆国の憲法制定にも加わり、合衆国創設に置ける思想面、実務面でのリーダーでもあったアメリカ合衆国建国の父(ファウンディング・ファーザーズ)の一人でもあります。ジョージ・ワシントンに注目も浴びることも多いのですが、大陸会議以前からかなり重要な立ち位置だったことが伺いしれます。ただ、資料をよくよくみると、海軍委員会には在籍したものの、後の海洋委員会には在籍していません。

https://en.wikipedia.org/wiki/File:Adamstrumbull.jpg


NH 92866-KN First Foreign Salute to the American Flag

〈アンドリュー・ドリア〉が一七七六年一一月、西インド諸島のセント・ユースタティウスにあるオランダのオラニエ要塞から礼砲を受けた時の絵画です。これがアメリカにとって最初に受けた儀礼行為〈ファースト・サリュート〉とされています。船尾とフォアマストの頂上に掲げられた大陸会議の旗、「グランドユニオン」旗が描かれています。

この旗を巡るお話は後ほど語ることとしましょう。

https://www.history.navy.mil/content/history/nhhc/our-collections/photography/numerical-list-of-images/nhhc-series/nh-series/NH-92000/NH-92866-KN.html


 これら四隻の船は商船を武装化した、言わば現在でいう武装商船が大陸海軍最初の艦艇とも言えます。当時の商船は海賊や、あるいは後にご説明する私掠船からの自衛のため、ある程度の武装をしていましたから、戦列艦でもない限りその境目は曖昧なものだったのです。

 続いて十一月に大陸海軍、そして大陸海兵隊(Continental Marine)の設置が正式に決定します。

 同年一二月には海軍委員会は十三植民地群からそれぞれ代表1人が選出される海洋委員会(Marine Committee)に吸収された形となりました。

 海洋委員会は軍艦の建造などの許可を出す一方、艦隊・艦への命令、将校の任命などを行うものとされ、事実上の海軍省、そのひな形とも言えそうです。

 ここで階級と給与も設定され、大陸軍と準ずるものとされ、提督は准将、その他、艦長、海尉艦長、海尉がそれぞれイギリス王立海軍を模して準備されました。

 四〇門以上の大砲を搭載する船は艦長、二〇~四〇門は海尉艦長、一〇門から二〇門までは指揮権のある海尉(コマンディング・ルテナント)と定められ、合わせて人員構成も定まります。

 大陸海軍の陣容の多くは商船の船長かあるいは商船隊を率いた者達が加わっている形で、いささか縁故人事もあったのは事実のようですが、それでも経験豊富な人員が大陸会議側に馳せ参じました。

 大陸海軍の指揮官として、エセック・ホプキンス(Esek Hopkins)が任命され提督として就任しました。ただし、提督といってもAdmiralではなくCommodore、現在では代将と呼ばれる立場ではあります。

 ちなみにその部下としてホプキンス提督が乗るUSS〈アルフレッド〉の艦長は、ダドリー・サルトンストール(Dudley Saltonstall)、この艦の一等海尉(First Lieutenant、艦長次席、副官の立場にある士官)としてジョン・ポール・ジョーンズ(John Paul Jones)が乗り組みました。まあ、ただ選ばれた上級指揮官はだいたい大陸会議参加者の縁故だったのも事実ですが、これをもって能力が足りないという指摘もあながち言い過ぎというか、当時の議会に加わるメンバーはそれぞれの植民地の名士であり、経済的に裕福でしたし、裕福であれば当然海運関係にも携わっていたので、縁故が幅をきかせたとしても無理もない面もあります。

 ついで設立された大陸海兵隊指揮官はサミュエル・ニコラス(Samuel Nicholas)が海兵隊大佐(Captain of Marines)として就任し、ここにまがりなりにもアメリカ大陸海軍・大陸海兵隊は編制されることになりました。


ホプキンス提督の肖像画です。下部には「Commodore Hopkins」の文字があります。

https://en.wikipedia.org/wiki/Esek_Hopkins#/media/File:EsekHopkins.jpg (2023/01/29)


 大陸海軍の制服は一七七六年九月五日に定められており「キャプテン-青布、赤ラペル、スラッシュカフ、スタンドカラー、平黄ボタン、青ブリーチズ、赤ウエストコート、細いレース付き。……」と色々細かい規定があったのですが、どうも現場には好まれておらず、後にインナーが白に変わった、とあります。上の図はその経緯を記したイラストです。

https://www.history.navy.mil/content/history/nhhc/browse-by-topic/heritage/uniforms-and-personal-equipment/uniforms-1776-1783/_jcr_content/body/image.img.jpg/1485279993170.jpg

(2023/01/24)


 ちなみに大陸海軍ですが大陸海兵隊法令では二個大隊編制とされていましたが実際には五個中隊による一個大隊のみで、改めてニコラス海兵隊大佐による徴募が行われ、四個中隊が編成されたと記述があります。


 ……さて、海兵隊とは何のためにあるのか。この時代を舞台としたホーンブロワーなどを初めてとする海洋時代小説か、あるいは〈マスター・アンド・コマンダー(Master and Commander)〉(2003年)といった映像作品を見た方であればイメージもわきやすいかもしれません。

 当時の海兵隊の役目は、艦に乗り組み艦内の秩序維持及び接弦戦闘時の戦闘要員などの武装兵であり、当時の海軍艦艇には欠かせない要員だったのです。


 時代が下がってナポレオン戦争の時の、有名な〈トラファルガー海戦〉で、ホレイショ・ネルソン(Horatio Nelson)を描いた絵画、「The Fall of Nelson, Battle of Trafalgar」です。画の右中央で倒れこんでいるネルソン提督がいて、彼を起こそうとしている赤い上着が、英国海兵隊員です。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:The_Fall_of_Nelson,_Battle_of_Trafalgar,_21_October_1805_RMG_BHC0552.tiff (2023/01/24)


 ちなみに南北戦争当時の大陸海兵隊の服装は切手で描かれているように、緑のコートに白いフェイシング(襟、カフス、コート裏地)を付け、当時の接舷戦闘時で良く使われた片手刃(カットラス)の斬撃から首筋を守るために、革製の高い襟を付けており、これが海兵隊の異名でもある「レザーネック」の由来ともなりました。

 ただ、外套が緑色になったのはそれほど深い理由はなく、当時のフィラデルフィアで緑色の生地が余っていたからだという記述もあるのですが、定かではありません。

https://en.wikipedia.org/wiki/File:Military_Uniforms_Continental_Marines_10c_1975_issue_U.S._stamp.jpg (2023/01/24)


 大陸海軍、大陸海兵隊の最初の(本格的な艦隊行動を伴う)戦いは一七七六年三月のナッソー襲撃(ナッソーの戦い, Battle of Nassauとも)でした。

 大陸会議において当時、緊急を要する問題は軍事行動に必要な様々な軍需物資の掌握でした。購入するための予算もすぐに手当がつくわけではありませんので、当座、アメリカ本土にある軍需品を手に入れようと画策します。

 折良くイギリス側がバージニアにあった倉庫からバハマへ軍需物資を運び出したことを知った大陸会議は、編制されたばかりの大陸海軍艦隊を差し向けることを決定しました。

 ただこれはどうも記述が一定しておらず、当初、カロライナ方面など沿岸警備を命ぜられたホプキンス提督の独断だったのか、大陸会議の密命だったのかはっきりとしません。これは後に騒動になりますが、後程語ると致しましょう。

 ともかく一七七六年の二月にフィラデルフィアを出港した大陸海軍四隻の艦艇は、途中、チェサピークで四隻の小型艦と合流。途中、一隻が故障により帰投するものの、残り七隻でバハマにある島、ナッソーへと向かい、海兵隊二〇〇名と水兵五〇名を上陸させます。

 これがアメリカにとっての最初の水陸両用作戦でした。彼らは損害なく上陸し、ナッソーにある砦の一つを制圧、無血入場を果たします。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Battle_of_Nassau.jpg (2023/01/24)

 と、ここまで書くとナッソー襲撃は大成功、となるのですが実態をよくよく読むとそうではないことがわかります。実はナッソーに保管されていた火薬の大半は、大陸海軍襲撃を知った現地指揮官の差配でまんまとその大半、二〇〇バレルの火薬が収まった樽、一六二個が夜にイギリス海軍の船で運び出され、大陸海軍艦隊が手に入れたのは積み残された三八個のみというのが実情でした。

 お粗末なことに、大陸海軍の艦艇は揃ってナッソーの港を封鎖もせずに艦艇を六海里ほど離れた沖合にあるハノーバー湾に錨泊していたためでした。

 ただそれでも無血で火薬を獲得したのは確かだったので成果は上げた、と見るべきでしょうか。その後、乗組員の中で疾病が蔓延したようで、苦しみながら帰途につくことになります。その間、二隻のイギリス船舶を拿捕することにも成功しました。

 当時を舞台にした海洋小説を読んだ方はご存じかもしれませんが、そうなるとこの拿捕船を操舵するための人員も乗組員から割かねばなりませんから、より一層、乗組員は払底したようです。

 大陸海軍艦隊は北上を重ね、チェサピークやフィラデルフィアではなく、ニューイングランドの、ロードアイランドにあるプロビデンスへと向かう中、一七七六年四月六日、ロードアイランド沖合にあるブロック島南東沖合でイギリス王立海軍のフリゲート艦、HMS〈グラスゴー〉に遭遇します。

 これがイギリスとアメリカの初の本格的海戦、ブロック島沖の海戦(Battle of Block Island)となりました。

 もっとも、戦いはHMS〈グラスゴー〉側に主導権があり、大陸海軍はその練度の低さもあいまって終始、ドタバタとした戦いぶりだったと記されています。……結果的にHMS〈グラスゴー〉を取り逃した大陸海軍側の損害ばかりが目立つ結果となったのがこの、革命戦争劈頭の戦いでした。


 この後の大陸海軍の戦いを記述したいところなのですが、満足な艦隊行動は革命戦争前半はこれっきりとなります。

  あとはロードアイランドのプロビデンス港など、それぞれの港に封じ込められた形となり、以後は運良く突破出来た単艦での行動ばかりとなるのでした。


 さて、ナッソー襲撃から一連の艦隊行動に参加した艦艇は商船を改造した、言わば武装商船だったわけですが、海軍委員会は大陸海軍編制直後から、武装商船ではなく新造艦艇……一三隻の各種フリゲート、三二門(五隻)、二八門(五隻)、二四門(三隻)をそれぞれ新造するよう承認していました。

 かくして大陸海軍の水上兵力はかくして創設されることになる……のですが、実のところを言えば、十三隻のフリゲートの行く末は散々なものでした。

 建造先であるドックがあったニューヨーク、フィラデルフィア、サウスカロライナのチャールストンはそれぞれイギリス軍に占領されたため建造中の艦艇が完成を見ずに失われました。それでも八隻の船の建造が各地で行われ、木材の不足や乗組員の不足に苦しみつつも完成し出撃するのですが、海に出られたフリゲート艦の全てがイギリス海軍の手によって大半が拿捕されるか破壊されてしまったのもまだ現実でした。 


 NHHCにある、大陸海軍艦艇のリスト(の抜粋)です。大半が一七八〇年までには沈められるか拿捕されているかがわかります。 

すべてではありませんが、NHHCに記載されている大陸海軍運用艦艇(の戦没)リストです。その多くが一七七七前後に撃沈されたか、降伏・拿捕されていることがわかります。

https://www.history.navy.mil/research/library/online-reading-room/title-list-alphabetically/v/vessels-of-the-continental-navy.html (2023/01/31)


 もともと数的にも練度的にもイギリス王立海軍側が優勢だったのが革命戦争での前半で、その中で大陸海軍は総じて苦しい戦いを繰り広げていた以上こうなるのも致し方ないとは言えそうです。


 また問題も色々とありました。

 ナッソー襲撃後の結果、大陸会議ではホプキンス提督を巡る二つの醜聞が取り沙汰されることになります。一つは、ナッソー襲撃を巡る命令違反でした。そもそも最初の命令書ではバージニア、そしてカロライナ周辺でイギリス艦隊との戦闘を命ぜられたのですが、その命令書では「彼ら(イギリス艦隊)が(大陸海軍より)劣勢であると判断した場合(中略)そこで見つけることができるすべての敵の海軍力を探し出し、攻撃するか奪うか破壊せよ」と書かれたあと、不測の事態にかぎり、「貴官の最善の判断でアメリカの大義に最も役立つと思われるコースに進み、あなたの力の及ぶ限りの手段で敵を苦しめよ」という内容でした。

 ホプキンスの判断は、最後の一文「最善の判断」で、ナッソー襲撃を行うことを定めたというのが本当のところだったのです。

 結果的には最後の海戦で(案の定)ミソを付けた形となったものの、襲撃そのものは成功し、大陸会議議長であるジョン・ハンコック(John Hancock)は彼を賞賛するのですが、大陸会議のメンバーらは命令を無視して独自の艦隊行動を行ったホプキンスの指揮に疑問符をつけます。

 さらにはブロック島沖の海戦でHMS〈グラスゴー〉を取り逃した指揮についても問題視していましたし、それ以上に度重なる戦意不足、命令違反が大陸会議のメンバーの中では不満だったと見られます。ただホプキンスには別の意見もあり、配下の艦長に問題があるとされ、幾人かの艦長が更迭されてもいます。

 そして二つ目の問題がより深刻でした。このナッソー襲撃の最中に拿捕したイギリス軍艦に乗っていた乗組員を捕虜とし虐待したという内部告発が行われたのでした。この問題もふくめ消極的で行動しないなどホプキンスに対して人望が損なわれ、乗組員の士官らが解任要求の嘆願書を出すほどの有様でした。

 大陸会議はこの問題をうけて、内部告発者保護法を制定することにもなるのですが、これにの問題を受けたためかホプキンス提督は一七七八年一月に離任することになります

 ホプキンス提督の代わりは、〈アルフレッド〉の艦長であるサルトンストールがついたものの、彼もまた一七七九年八月、マサチューセッツ植民地海軍を指揮して行ったメイン植民地へのプレスコット遠征で参加した艦艇十九隻・輸送船二五隻すべてが撃沈あるいは拿捕される大損害を出した責任を問われて大陸海軍を辞めさせられています(ただ、これをもって無能とは言い難く、彼は後に私掠船に乗って色々活躍しているのも事実です)。

 このように大陸海軍の動きは大陸会議の思惑とは別に艱難辛苦、色々とままならないのは事実だと言ってもいいでしょう。

 そんな活動として低調だった大陸海軍とは裏腹に、活発的な動きをしていたのは何度か記述している私掠船だったのです。


2023年2月11日土曜日

合衆国海軍通史 私家概要 1-2 アメリカ、その歴史について(3)

  十七世紀末、一六八八年から北米大陸を舞台にした英仏の争いが本格化していくことになります。ウィリアム王戦争(一六八八~八九年)、アン王女戦争(一七〇二~一七一三年)、ジョージ王戦争(一七四四~一七四八年)という名前は日本ではほとんど知る方もいらっしゃらないでしょうが、北米大陸を舞台にした戦争が繰り広げられていました。

 この他、先住民族との衝突戦争もあったのですが割愛しても良いでしょう。


 一七五〇年あたりのアメリカ大陸における欧州諸国の勢力図は以下の通りでした。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Nouvelle-France_map-en.svg (2023/1/16)


 実はこの時期の北米大陸を大きく手中に収めていたのはイギリスではなく、フランス北米領ヌーベル・フランス、だったのです。フランスはアメリカ大陸北部のセントローレンス湾へと流れ込むセントローレンス川を遡上し五大湖に到達。さらにそこからオハイオ川を下ることで北米大陸を縦断し、メキシコ湾にまで繋がるミシシッピ川流域一帯の占有を宣言していました。

 もっとも英国植民地ほど植民は進まず、広大な土地をごく僅かな植民とネイティブ・アメリカンの各部族たちが住むだけだったのが実情のようで、記録には一七五〇年あたりで人口一〇万人弱と少ないものでしたが、英国植民地群にとっては人口増加のために西方へ拡大し続ける一方、必然と衝突する道をたどることになります。

 これがフレンチ=インディアン戦争(一七五四-一七六三年)という戦いとなります。

 イギリス軍及び植民地の民兵軍はヌーベル・フランス領内の五大湖周辺のインディアン(先住民族)とも衝突を重ね……これは戦後も継続しますが……この一連の戦いを表す名前として、フレンチ=インディアン戦争とアメリカ国内で呼称されることになったわけです(「フレンチ・アンド・インディアン戦争」とも呼ばれることもあります)。

 敵はフランスとインディアン(ネイティブ・アメリカン)だったと言いたいわけですが、当時英国側に立った先住民族の部族もいたわけで、正しい呼び方かと言われると疑問の余地はあるのですが……。

 ただこの時期、世界史というスケールでみればイギリスとフランスはそれぞれ世界の覇権を握るための、一六八八年からナポレオン戦争が終結する一八一五年まで続く第二次百年戦争の真っ只中で、このフレンチ=インディアン戦争は、世界各地の領土、植民地を巡って衝突する最初の『世界大戦』でもある七年戦争の始まりを告げるものでした。

 ……実は先のウィリアム王戦争から続く戦いをまとめて北米植民地戦争と呼び、英語ではFrench and Indian Warsと呼ぶ資料もあって、こちらではWarsとなっているので区別が必要です。

 七年戦争では欧州大陸ではプロイセンとオーストリアの戦いにイギリスがプロイセンに、フランスがオーストリアについて戦い、ロシアなども加担。世界に散らばる植民地でそれぞれ戦いが繰り広げられることになったのですが、北米大陸の戦いも重要なものでした。

 これはこの後のアメリカを形作る戦いへの序曲のようなものだったのです。

 もっと重要な話をすれば、この戦いにはバージニア植民地で生まれたある若き士官が戦いに加わり、フレンチ=インディアン戦争の最初の戦いで指揮を行っていました。

 その若き士官の名はジョージ・ワシントン(George Washington)と言うのですが、彼が歴史の表舞台に出てくるのはもう少し後になります。


 北米大陸で繰り広げられたフレンチ=インディアン戦争はフランスが敗北したことで英国によりヌーベル・フランス中央~北部を奪われ、ヌーベル・フランス領のメキシコ湾に接する南部は維持することが難しくなったためスペインへ引き渡されます(この他、フロリダもイギリスの手に落ちます)。


上の濃い部分がイギリス(植民地)、ミシシッピ川(中央)以西のヌーベル・フランス領がイギリス獲得領となり、フロリダからメキシコ湾周辺がスペイン、後にイギリス領となります。このように北アメリカ大陸の半分をイギリスが手中に収めたのが一七六三年前後の話となります。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:NorthAmerica1762-83.png (2023/01/16)


 さて、七年戦争のきっかけでもある領土も増えて万々歳、と行かないのが世の定めというか、この勝利が必然とアメリカ大陸の次なる騒乱を呼ぶことになります。


 この結果、アメリカ革命戦争へと至る道が作られた、と言うべきでしょうか。


 まずアメリカ大陸東の十三植民地群は増加する移民者の入植先として西方に狙いを定めていました。ヌーベル・フランスの瓦解後、自分たちの新たな入植地(フロンティア)として見るのは無理もない話でした。

 一方、イギリス本国は七年戦争で実質の勝利を得た一方で、世界帝国を維持するための経費に喘ぎ始めます。七年戦争は終わってもフランスとの衝突は続き、戦費が必要になっていましたので、出来ればアメリカ大陸の統治をより本国側へと傾けることで税収による歳入増加を求めだしました。

 あわせて旧ヌーベル・フランス領の統治も含め、先住民族対策も頭の痛い問題で、西方への発展は漸進的に行おうと考えていて、ここに北米十三植民地群との対立がおきることになったのでした。

 百年以上続いた植民地開拓時代、基本的に十三植民地群は各々の自治によって行われていたのですが、英国政府は彼らに対して権利の前に義務を求めることになります。


 すなわち重税の始まりでした。


 これらの動きは七年戦争前から既にあって一七三三年に定められた糖蜜法がありました。サトウキビから砂糖を精製する際に生じる糖蜜は、ラム種の原料ともなるものです。

 糖蜜法では、英国以外からのラム酒の輸入禁止と糖蜜の輸入に高い関税が課されるもので、なぜこうなるのかと言えば、すべては当時大西洋で繰り広げられていた三角貿易が理由です。

 一般的な三角貿易では英国はラム酒や繊維製品、武器などを西アフリカに送り、西アフリカは労働力となる黒人を西インド諸島、北米大陸へと送り、西インド諸島・北米大陸は砂糖や綿花を欧州へと送る形ですが、その逆もありました(下図参照)。

 ちなみに北米大陸は農産物や魚介類を西インド諸島へ、西インド諸島は砂糖や糖蜜を英国へ、英国は工業製品を北米大陸や西インド諸島へ送るという一連の流れもありました。

 三角貿易は単純なモデル化されたイメージのようなもので、一隻の商船が大西洋をぐるりと回る、と想像しがちですが、実際のところそれぞれの航路別に専用の船、船団が航行されていたケースも多かったようです。ただ、一隻で行う場合、概ね一周するのに一年を要したようです。

 で、ここでラム酒が絡んできます。当時、北米大陸へ送り込まれる黒人奴隷への支払いはラム酒で行われており、この製造のためには糖蜜が必要だったわけですが、西インド諸島からの砂糖の輸入に関税がかかると当然ラム酒の製造コストは跳ね上がるし、英国からしか購入できない状況もありながら、他国(フランス植民地などから)ラム酒の輸入ができないことは、十三植民地群にとってかなりの負担となります。

 輪をかけて面倒だったのはイギリスの輸出入に用いる船舶は、イギリスあるいはイギリス植民地で作られた船であること、さらにはヨーロッパ行の船便でもイギリス本国を経由するなどを定めた航海法も一六五一年から存在しており、英国による植民地への負担は増していく一方だったのです。なので密輸もかなり横行していた模様です。


従来よく言われる「三角貿易」の図です。

① イギリス(欧州)は、西アフリカに対してラム酒や繊維製品や工業製品、武器を送る。

② 西アフリカは西インド諸島・アメリカに黒人奴隷を送る。

③ アメリカはイギリス(欧州)に砂糖、タバコ、綿花を送る。


https://en.wikipedia.org/wiki/Triangular_trade#/media/File:Triangle_trade2.png


昨今、北米ニューイングランドを頂点とした三角貿易もあった、とされています。

① ニューイングランドからラム酒や加工品が西アフリカへ送られる。

② 西アフリカからは黒人奴隷が送られる。

③ 西インド諸島からは砂糖(糖蜜)が送られる。

という形でした(ただ、限定的だったとされる意見もあるようです)

https://en.wikipedia.org/wiki/Triangular_trade#/media/File:Triangular_trade.jpg


 ですが、この航海法は後の合衆国海軍の遠い恩恵の一つともなります。


 先にもご説明したように当時木造船を建造するために必要な良質な木材の入手が欧州では難しくなりつつあったのです。何しろ大洋を航海する船は大型化する一方、なのに必要なナラの木を船に使うためには、オーク材(ヨーロッパナラ)ですが、この育成は二〇年~三〇年、良質さを求めるなら五〇年は育成に必要なものだったのです。

 そのため、スペインのフェリペ二世は一五七四年にに「造船及び森林保護監督官(la superintendente de construcción naval y fomento forestal)」という役職まで作って、造船業の並行して森林の伐採などを管理する責任者を準備しているほどなのです。

 その点、アメリカ大陸は入植されたばかりで手つかずの良質な木材が豊富にあったことも大きかったのでしょう。

 アメリカ国内で入植島嶼から造船が行われていたと資料にありますが、本格的に造船業が広まるのは一六四〇年代あたりからだったようで、英国から船大工を呼び寄せ建造が始まると、最初は十三植民地群の沿岸を航行するところからはじまり、中小型の貨物船建造が行われるようになると次第に建造能力が向上していったようです。

 マサチューセッツを中心に造林業が盛んで、杉、楓、白松、スプルース、オークといった木材が豊富にあったことから建造費は本国の半分以下だったようで、このことも追い風となりました。

植民地時代のバージニア州における建造風景です。恐らく初期のものを絵にしたのでしょう。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Early_Ship_Yard.jpg (2023/01/20)


 マサチューセッツ植民地の都市、ボストンでは数多くの造船所が造られていたことが当時の地図からもわかります。


植民地時代、革命戦争直前の一七七五年、ボストンの地図です。

当時のボストンの中心部であったシューマット半島が都市となっており本土とは細い地峡と繋がっています。東部一帯に多くの突堤があり造船業が盛んだったことが伺いしれます。

現在のボストン市街は埋め立てが進み、当時の面影はまったくありません。興味がある方は地図でご確認されると良いでしょう。

https://en.wikipedia.org/wiki/File:Boston,_1775bsmall1.png 2023/01/19


 のちに一六九〇年には英国によって軍艦の発注も行われ、ニューハンプシャーのニューキャッスルにあるホランド社が受注した五〇門の大砲を装備した戦列艦、四等軍艦〈フォークランド〉の建造が行われています。

 もっとも安価な造船業の活況のために、マサチューセッツ周辺の木材資源は払底していったと記録にもありますが、革命戦争前夜、イギリス全体で建造される船腹量の半分がなんとマサチューセッツを中心とするニューイングランド全体で建造されていたとあります。

 後の大陸海軍、そして後の合衆国海軍に必要な艦艇の提供に支障がなかったことはアメリカにとっては幸運なことでした。

 ……このようにイギリス植民地群での経済発展にあわせて造船業が勃興していくきっかけの一つがこの航海法でもあったわけで、この事は後の大陸海軍、そして海軍創設に大きく関わっていくことになります。


 さて話を戻して、英国本土政府の北米植民地に対する政策についてご説明すると、戦争後の重税政策は矢継ぎ早でした。

 一七六三年に糖蜜法に代わって砂糖法が成立します。ラム酒の輸入が禁じられ、糖蜜への関税は引き下げられるのですが、反対に砂糖の関税は引き上げられます。合わせて嗜好品(ワイン、絹、コーヒーなど)の輸入にも関税がかかることになりました。

 糖蜜法の時代から密輸取り締まりは強力に行われていたのですが、砂糖法でもより糖蜜への関税を下げることで密輸の需要を減らそうという意味もありました。

 続いて一七六四年には印紙税法が制定されようとしていました。この法案では植民地群で印刷されるありとあらゆるモノ――それこそ、法的な書類から、新聞広告、パンフレットに至るまで――に対して印紙を購入し、貼る必要があるとされました。印紙は税関吏が徴収し、その収益は植民地の「防衛、保護、および安全保障」のために使われるもの、と定められます

 このような関税や重税がのしかかることに対して植民地側の商人たちを中心に反発します。彼らはこの課税が「代表無き課税」であると訴え、暴力的な反対行動まで発生。貿易へのボイコットも辞さないことを恐れた英国側商人も同調。結果として印紙税法は廃止され、砂糖法を修正するに至ります。

 つづけて十三植民地からは先の「代表無き課税」についてイギリス本土政府(議会)からの課税は無効であるという意見が上がり始めます。


 「代表無き課税」とはなんぞや、と言われると、もともとイギリスでは「人民が自ら選出した代議士の承認無しに政府が人民を課税することは不当である」という不文律がありました。いわゆる一三世紀から続く大憲章(マグナカルタ)にも記されている伝統でもあったわけです。

 さらに植民地の入植は英国王からの免許状をもって行われており、議会の設置も同様である以上、植民地の代表は英国王である。にも関わらず植民地議会が英国本土の法案を可決する権利を有しない現状では、イギリス議会もまた植民地に対する課税をめぐる法案を可決する権利を持ち得ないのではないか――代表権を植民地に認めるか否か? そういう理屈でした。

 まぁわかりやすく言うならば、自治政府もあり裁判所もある植民地の頭ごなしに増税などを決める権利はイギリス議会にはないし、植民地からの代表が議会に存在するわけでもない。そもそも我々はイギリス本国と並列なんだろう? というのが意見の本質でした。

 棄民のように新大陸に送り込んで、都合の良い時だけ税収を上げるやり口が受け入れられず、(特に北部の)ニューイングランドではその形成故か国王や国教会の威光よりも契約などが重んじられるところがあったのも事実です。

 ……もっともこの意見はイギリス議会からは相手にされません。先の戦いでもそうですが、軍事負担を行いつづけていたのは本国イギリスですから、応分の負担をすべきという意見はもっともな面もあります。

 このためイギリス議会は続けて、宣言法を定め「いかなる場合においても」植民地を拘束する法律を制定する権限を認めるものとしました。当時の議会はトーリー党(王党派)が中心でイギリス国王ジェームズ三世を支持しており、北米大陸植民地の権利については頓着しない状態だったのも一因ではあります。


 十三植民地群において、イギリス議会及び国王の振るまいは、有り体に言えば中央政府からの圧政にほかなりませんでした。これはアメリカの政治思想的に連々と繋がる中央政府に対する忌避感・嫌悪感の始まり、でもあったとも言えます。


 決定打は一七六七年のタウンゼント諸法で、この法案では印紙税法と異なり、英国本土からアメリカ植民地への輸入品(紙、ガラス、鉛、および紅茶)に対して関税をかけることは合法であるとの立場でした。これにより歳入を安定させ、植民地統治の財源とすることをもくろんだのですが、当然十三植民地からは猛反発を受けます。


 ――そう、これがかのボストン茶会事件の導入となるわけです。


 さてボストンでは税関吏に対する暴力から守るためという名目で英国本土から二個連隊が派遣されます。これによりボストンでは英国軍兵とボストン市民との対立が発生。

 些細な行き違いと誤解がもたらした衝突が発生し、一七七〇年の三月にボストン虐殺事件が発生します。

 虐殺、となると仰々しいのですがその実情を知るといささか腰砕けになります。英国士官が散髪代金を納めないと苦情を言い立てたのがきっかけで(実際は払われていました)、応対した英国弊が苦情を言い募る市民を殴打。これを見たボストン市民が英国軍に石や氷の塊を投げ込みます。この動乱の最中、氷の礫が当たった兵士が倒れてしまい、英国軍兵士が発砲を開始。結果的に五人の死者が発生します。正直、虐殺というからにはもっと大規模かつ遠慮のないものかと思いきや、正直不幸な衝突事故としかいいようがありません。そのため英国軍では裁判が行われますが、結果的に参加した兵士の何人かが微罪として裁かれただけだったのですが、この事件を契機にマサチューセッツ植民地では独立の気運が高まるようプロパガンダに用いられることになります。

 ちなみにこの裁判で英国兵士の弁護にたったのが第二代大統領で合衆国海軍創設の立役者の一人でもあるジョン・アダムス(John Adams)でした。

 彼はのちにこの事件の裁判について 「私の人生の中で、最も勇敢で、寛容で、人間的で、公平無私な行動であり、また国に対して行った最善の行いのひとつであった」と述べるぐらいには、まぁ、気高い行為でしたが、この事件が独立への契機になったことも認めています。

 さて、この事件を受けて英国政府・議会は幾分態度を軟化させる為もあって結果的にタウンゼント諸法は取り下げられるのですが、ただ一つ、嗜好品である紅茶についてだけは関税処置が成されます。これが火種になっていくのでした。


※指摘があり、ボストン茶会事件のパートを修正しています(2023/03/05)


 一七七三年。イギリス議会は財政危機に陥った東インド会社の支援のため、北米植民地での紅茶の独占販売権を認める茶法を成立させました。当時の北米植民地において紅茶はオランダ産の密輸品が横行していたのですが、茶法の成立により東インド会社産のものが密輸品よりも(ごく僅かとはいえ)安く提供されることになります。しかも、荷揚げの時の税金は地元輸入業者が支払うものとされていました。  政府の中では関税撤廃を求めていた者もいたのですが、これを認めてしまうと植民地に対して誤ったシグナルを生じかねないという問題もさることながら、紅茶の税金収益が植民地を統治する総督らの給料の財源として使われていたことも一因で認めれませんでした。  一方の植民地側も危機感を募らせる一方でした。オランダ産の紅茶を密輸していた商人、東インド会社から委託販売できなくなった商人、そしてこの将来的にこのような方法が他の商品にも拡大するのではないかという恐れもあり、荷受人らへの圧力が強まる一方でした。このため荷受人が辞退する形になり、結果的に東インド会社の紅茶の大半は船に積まれたまま本国へ戻ることになるのですが、ボストン港だけは事情が異なり、総督は関税を支払われるまで出航を認めず留め置かれることになります。これに愛国的急進派、別名自由の息子達が反発。船を襲撃し、ボストンの港へ紅茶を投げ込む事件が発生しました。


※修正終わり


 これがいわゆるボストン茶会事件です。

 ご丁寧に彼ら「自由の息子達」は皮肉にも先住民族モホーク族の装束に身を包むという形でした。自分たちが排除した先住民族に身を隠してというのも中々思うところはあるのですが……。

 この事件を知ったジェームズ三世のみならずイギリス議会は態度を硬化。

 マサチューセッツ植民地議会を認めず、自治権へと介入するために数々の法案を議決します。あわせて各地の植民地議会を認めず、各植民地に総督を送り込む、あるいは強権を振るう人物を就任させる人事を行います。この他、現地のイギリス軍の宿舎などを準備するのを義務づけるなどと言った数々の法を打ち出していきます。

 これがアメリカ植民地側をして「耐え難き諸法」と呼ぶ一連の法案で、イギリスとの対立を呼び起こすことになるのでした。

 このイギリス側の対抗策に危機感を抱いた植民地群は一七七四年九月、バージニア植民地議会の音頭により各植民地代表がフィラデルフィアに集まります(ジョージア植民地だけは参加せず)。

 これが大陸会議(Continental Congress)の第一回会合でした。

 彼らはイギリス議会からのこれら諸法の適用は自分たちの権利「生命、自由、財産」の侵害であり植民地議会の軽視であるという立場で概ね一致し、結果「大陸連携(Association)」として連携することが定まります。

 無論、この段階でも十三植民地側の中には穏健派も数多く存在しており、彼らは対話と譲歩をもって事の解決を望んでいたのも事実でしたが、この希望は結果的に適いませんでした。同年同月、温和かつ理想主義でもあったクエーカー教徒らの事態の収束を願う歎願を受け取ったジェームズ三世は歎願について嘲り、このように語ったそうです。


「いま、賽は投げられた。植民地には屈服か勝利のいずれかしか道はない」

 

 ――かくして衝突は確定的となるわけでした。


2023年2月4日土曜日

合衆国海軍通史 私家概要 1-2 アメリカ、その歴史について(2)

  さて初の恒久的植民地のジェームズタウンを巡る物語にはディズニーの映画のモデルともなっているポカホンタスなどの興味深い話もあるのですが、本筋ではないので省略しましょう。

 恒久的植民地となったこのジェームズタウンのあるバージニアでは以後も植民と開拓が進むことになり、十三年後の一六一九年には早くもこのバージニアで最初の植民地議会が開催されます。

 そしてもう一つの出来事もこの年に記録されています。

 イギリスの私掠船が、ポルトガルの奴隷船から略奪した二十余名の黒人をつれてきたと記されているのです。一六二〇年に行われた人口調査では黒人男性一五名、黒人女性一七名がいくつかの農園で仕えていた。とされており、皮肉にも、一六一九年にはアメリカを象徴する自治議会、すなわち民主主義と黒人奴隷という、その後のアメリカの光と影のような二つがすでに現れていたと言えそうです。


 ……ともかくバージニアを皮切りにその後も英国主導による植民地は各所に造られますが、その一方で、欧州各国も同様に北米大陸へと入植していました。

 例えばオランダは現在のニューヨーク突端をニューアムステルダムと定め、周囲をふくめてニューネーデルランドと呼びました。この他にもスウェーデンからも植民が行われます。

 とはいえ英国側の植民政策がわりと強力かつ大量に行われていったのは事実で、次第に十三にまとまった地域、自治政体をもつ植民地が並立することになりました。


 ただ一般に植民地と言ってもその成り立ちは各々、微妙に異なっていました。

 先にも書いたようにメイフラワー号に乗った人々のように――欧州で発生していたマルティン・ルター(Martin Luther)やジャン・カルヴァン(Jean Calvin)らによる宗教革命の流れを受けて発生したイギリス国教会内での改革派、つまり清教徒(ピューリタン)たちが迫害から逃れるように、アメリカ大陸へと渡り、彼らは巡礼父祖、ピルグリム・ファーザーズ(Pilgrim Fathers)と呼ばれるのですが――自発的な植民によってつくにれたプリマスのような「社会契約に基づく植民地」、バージニアのように国王の免許状を受けて社団(企業・組合)による「自治植民地」、イギリス国内の貴族が国王の免許状を受けて作った「領地植民地」など、その経緯により植民地にも違いがありました。

 ちなみに最初期の「社会契約に基づく植民地」は後に自治植民地に吸収され、最終的には植民地のほぼ全てが、国王の代理人たる総督が統治する「王領植民地」へと変化します。

 ……ただこれらの植民地の多くは経済事情も、また住民構成も異なっていました。

 例えば先にご説明したバージニアはジェームズ一世時代の特許状により植民が行われたことから王党派の流れを組む一方で、より北部のマサチューセッツ植民地は同様に企業主導による自治植民地でしたが、さらに元を辿れば自発的植民地、プリマスなどの流れがあるために清教徒が多いために契約主義的な面もあり、これが後の革命戦争へと繋がる思想的な面でのはじまりでもありました。


 一方で、ニューヨーク植民地などは、王の特許状を得たヨーク公がニューネーデルランド、すなわちオランダの植民地を占領する形で行われた他、その西方地域ではウィリアム・ペン(William Penn)が国王の免許状をもとに〈ペンの森 Pennsylvania〉、すなわちペンシルベニア植民地となるのですが、ペンが清教徒革命から端を発した理想主義的かつ穏健派でもあり禁欲的でも知られる敬虔なクェーカー教徒であったことから、かの地にはクェーカー教徒が多く移住していくことになります。無論、それだけではなくカソリック教徒、あるいはフランスのユグノー教徒などが南部を中心に植民していました。

 このように、現在の合衆国州の基礎となる植民地(コロニー)はそれぞれの成り立ちも、ましてや宗教も異なる多種多様な植民地群でもあったのです。


 これら植民地の内情はどうだったでしょうか。

 まず新大陸へ渡ってきた人には大きくわけて三種類のケースがありました。一つは先にもご説明した清教徒やクェーカー教徒に代表される宗教上の理由、あるいは経済上の理由により移民を選択した「自由移民」、そして高額な渡航費用を立替えてもらうかわりに四年など、定められた年数を決められた場所で働く「年季契約奉公人」、そして最後に重罪人などの「流刑囚」で、概ね比率的に5対4対1でした

 自由移民が比較的裕福な立場電子書籍版、家族単位で移民してきたのですが、その反面、年季契約奉公人はイギリス国内での下層階級、二〇代前半の独身男性で、故郷で職にあぶれて都市部に流入する一方だった彼らをひとまとめにして新大陸へ送り込み、人的資源の再配置を目指したとも言えそうですが、彼らの多くは人手が必要な中南部の植民地へと送り込まれることになりました。

 過酷な中南部の自然環境は病気などにもかかりやすく、渡った人々の三割が亡くなったのですが、必然と生き残った人々は免疫を獲得したせいか長命だったとも言われています。

 傾向としては北部の自由移民たちが多い地域では、家族単位の移住のためか生まれる子息の数が多く血族的な流れが強くなる一方、南部では逆に一家族あたりの子供の数は少なく、寡婦などの社会的支援などもあったために、異父母兄妹などが多く存在する家族など多く見られたそうです。後に年季契約奉公人は減少していくのですが、その結果、人手を確保するために黒人奴隷を多く使用することになるのも、こういった事情からでした。

 そして、あまりここまで触れていませんでしたが先住民族の問題はさらに根深く存在していました。白人植民地域が拡大すれば必然と逐われることになるのが彼らでした。彼らは時に協調し、やがて反発し、そして、その後ご説明する欧州各国、あるいはアメリカ植民地群との争いに否応なく巻き込まれていくことになります。

 海軍史という立場であまり関わることのない先住民族については、本書ではあまり記述いたしませんが興味のある方は是非、アメリカ史などを読んでいただきたいところです。


 のちに大半が王領植民地となると先程書きましたが、これらの植民地の統治方法はどうだったかと言うと、国王の代理人である総督の指示によって植民地議会が招集されており、イギリス本国議会同様、参議会(上院)・代議会(下院)の構成でかなりの自治が認められていました。ただ、場合によりイギリス本国の国王を補佐する枢密院により植民地議会の立法が無効とされる場合もあったようです。

 しかもこの議会は、現在の議会の役目、民衆の代表たる議員が意見や利害の対立を解消するためのもの、と言うより、地域の有力者達による儀礼的な――すでに経済的な格差により支配・被支配の階層が成立していたため――側面が色濃かったようです。

 そして植民地内の地方行政単位は郡(カウンティ)として形づくられ、郡庁がおかれ治安判事、保安官、警吏が任命・選挙で選ばれるものとされました。これはイングランドでいうところの州(シャイア)と同様でした。

 一般に植民地(プロヴィンス)の語源はローマ時代の属州(プロヴインキァ)になるのですが、新大陸の十三植民地はイギリス本国から見れば、「州」の規模である「郡」の集合体でもあるある意味、「国」のような経済・人口圏だったと言えるでしょう。

 事実、この十三植民地群は後に「邦(State)」そして「州(Sate)」と名を変えつつもそれぞれ独自の憲法、議会を有する形となるのでした。

 ちなみに現在、マサチューセッツ、そしてペンシルベニア、バージニア、そしてケンタッキーの各州は日本語ですと「州」ですが、英語ではStateではなく各州憲法で定めるところのコモンウェルス(Commonwealth)――日本語ではイギリス連邦と区別するため米国州と和訳されていますが――とされています。

 コモンウェルスそのものの語源は、民衆の「共通の (common)」「富 (wealth)」ないし「福祉 (welfare)」を意味しており、共和国(Republic)の古い言い方でもあります。つまり、彼らは合衆国内を構成する州、というより自治共和政府であると任じているのでしょう。


 また彼ら植民地の多くで、先にアメリカ大陸に住む先住民族たちからの協力もいつしか衝突が深刻となり(かつ、場合によっては植民地同士でも)争うようになったことで各植民地の住民は武装の道を選び、これが民警団(Posse comitatus)となり、民兵(Militia)となり、最終的に軍事組織が結成されることになります。

 最初の組織だった民兵部隊は一六三六年、北部のニューイングランドと呼ばれるマサチューセッツ植民地で行われた三個連隊の編制命令が最初となりました。

 ただし、先にもご説明したように、北部マサチューセッツ植民地を構成する住民の多くは清教徒であり英国本土で同時期に発生する清教徒革命同様、王室に対して批判的な立場であったことは注目しておいてください。国民の武装の切っ先は、支配者たる王と国教会へ向けられていることと同義で、これは国家軍隊と大きく違っている点です。


 さて、最後の植民地である最南部、ジョージア植民地の特許状が一七三三年に出て、十三植民地群は成立します。アメリカ西海岸の英国主導による植民地は十七世紀、ほぼ百年と十八世紀の四分の一以上を費やして、成立する形となったわけです。


 さて、概ね植民地開発が百年も続けば、バージニア植民地以外の各植民地も開発は進みました。この間、戦争や、地主のいない土地を求めて欧州各国からの移民の規模は膨れ上がり、植民地の人口増加し続け、一七〇〇年に人口二五万人だった英国植民地はわずか六〇年足らずで六倍、一五〇万人の規模にまで達します。ボストンやフィラデルフィアといった都市は拡大を続ける一方でした。

 拡大を続ければ産業その他もろもろの多くは発展します。教育方面で言えば例えば一六三六年にハーバード大学が、その後も一七〇一年にイエール大学、一七四一年にペンシルベニア大学が設立され、これらの大学は今でもコロニアル・カレッジ(植民地時代から続く伝統校)と呼ばれてもいます。これら東海岸の名門大学の学生達はそれぞれ現在で言うところの学生サークル、秘密結社を組織し以後アメリカの政財界・軍部などで大きな関係を見せるのですが、その話はまたいずれと致しましょう。


アメリカ建国直前の東海岸沿岸に広がる十三植民地です。

ただし植民地の成り立ちも住民構成も違いがあり、経済圏もまた違っていたことが後の南北戦争への遠因となります。

概ね三つの区域にわかれるのが上の図からでもわかります。


ニューイングランド

北からメイン、ニューハンプシャー、バーモント、マサチューセッツ、コネチカット)がニューイングランドと呼ばれています。この地域は農業ではなく商業、造船が盛んになります。前述したようにこの地にはカルバン派の影響をうけた清教徒が多く移民していました。


中部植民地

シャンプレン湖から大西洋に流れるハドソン川、南のデラウェア川の間にあるニューヨーク、ペンシルベニア、ニュージャージー、デラウェアは多くの国からの移民によってなりたっていました。ニューヨークは先にご説明したようにオランダ系、ペンシルベニアはクェーカー教徒だけではなく、ヨーロッパの諸宗教にも門戸を開いたことから、アーミッシュをはじめとする、ドイツ、あるいはスコットランドからの迫害を逃れて移民してきたものも多くいました。


南部植民地

バージニア、メリーランド、カロライナ(後にノース、サウスの二つにわかれます)、ジョージアの南部植民地は農作物が中心で栄えていました。初期植民地であるバージニアを中心として大規模農園が経営され、バージニアやメリーランドではタバコ、カロライナ、ジョージアでは米や染料であるインディゴの原料であるナンバンコマツナギなどが栽培され、その農園を維持するための黒人奴隷が多く流入することになります。

https://en.wikipedia.org/wiki/Thirteen_Colonies#/media/File:Thirteencolonies_politics_cropped.jpg (2023/1/6)


 このようにして北米大陸の東海岸沿いに出来た十三個のイギリス植民地群は次第に世界規模で繰り広げられることになる英仏の戦いに大きく関わっていくことになります。