2023年2月18日土曜日

合衆国海軍通史 私家概要 1-4 アメリカ革命戦争(一七七五年~一八八三年)大陸海軍への道

 1.4.アメリカ革命戦争(一七七五年~一八八三年)大陸海軍への道

アメリカ革命戦争序盤~ボストンを巡る戦い


 一七七五年四月、アメリカ革命戦争の火蓋が、レキシントン、そしてコンコードで始まります。これがレキシントン・コンコードの戦い(Battles of Lexington and Concord)でした。ボストンに展開するイギリス軍正規兵が、ボストン郊外にあるコンコードのマサチューセッツ植民地民兵の武器庫を制圧しようとするのですが、その途中にあるレキシントンで先手をうってアメリカ側植民地民兵と衝突することになります。

 さて、誰が先に発砲したのか。当時のアメリカ側の絵画などではイギリス軍が先に発砲したのだとされているのですが、現在では双方どちらが先に発砲したのか、双方の証言では相対した双方の軍勢正面からではなく、その後方の発砲音が聞いたせいで、その後方の発砲音そのものもどちらとも、相手側の後ろから、という意見のせいで不明なところもあります。

 その後、アメリカでは色々この戦いを賛美、あるいは称える動きはあるのですが、日本人からしてみると、戦場の緊張状態がもたらした偶発的な発砲が衝突を呼んだ……ありがちなケースかもしれないな、としか見えない点もあります。

 ただもっともこの段階では小競り合いの規模でしたが、その先にあるコンコードでも植民地民兵の襲撃にあい、イギリス軍は撤退を開始します。しかしその撤退も追撃する植民地民兵の襲撃を受けることになるのですが。この戦いの結果、ボストンへとイギリス軍は撤退する一方で、衝突を知った各地からは民兵達が集結しボストンを包囲することになります。

 五月には民兵側は重火器でもある大砲を獲得するため、ボストンから二五〇キロほど北西にあるカナダに近いシャンプレーン湖、その南端にあるタイコンデロガ砦を無血で占領。百門以上の大砲を獲得します。

 六月、ボストン島とチャールズ河を挟んで対岸にあるチャールズタウン半島の丘、バンカーヒルをめぐっての戦いが繰り広げられました。ここから大砲を設置してボストンを砲撃されることを恐れたイギリス側は河を渡ってマサチューセッツ湾植民地民兵らが構築した野戦陣地へと攻め込み、犠牲を払いつつチャールズタウンを獲得することに成功します。

 これら一連の衝突を聞いた、バージニアで農園を営んでいたジョージ・ワシントン、マサチューセッツのジョン・アダムズら、のちに建国の父と呼ばれる者達が革命戦争に身を投じることになるのでした。

 六月十四日、改めてフィラデルフィアで開かれた第二次大陸会議において大陸軍(Continental Army)の設立が決まり、翌日、総司令官にジョージ・ワシントンが選ばれることになりました。

 かくしてここに十三植民地群によって形成される植民地軍と北米大陸に展開するイギリス軍との戦いが繰り広げられることになります。

 これが一七七五年から一七八三年まで八年近く続く長く厳しい戦いになると、予期していた人物は誰もいなかったにちがいありません。


……ここで革命戦争の経緯を語り続けるとますます長くなるので、一旦、海軍の話へと筆を替えたいと思います。



大陸海軍(Continental Navy)という名の『間に合わせの海軍(Adhoc Navy)』

 さて、いよいよもってこの海軍らしいお話へと突入します。

 植民地群が如何にして海軍を保持するようになったのか。その実体はどうであったのか。

 この一七七五年現在、彼我の海軍兵力はどうだったのかを確認してみます。


 イギリス王立海軍は七年戦争の余波で、艦艇の更新が進まず満足に使える戦列艦は四〇隻にも満たない状態でした。ただ革命戦争勃発時点で、カナダのハリファクスから東海岸南端のフロリダに至る沿岸には(戦列艦以外のフリゲートなども含めてと思われますが)二十八隻の軍艦があったとも書かれています。 

 一方、植民地軍側にはまともな軍艦を保持しているわけではありませんでしたから、ボストンのイギリス王立海軍側はほぼほぼフリーハンドで海上を行き来きできたため、ボストン包囲はあまり効果的ではありませんでしたし、後に説明するような私掠船の航行を許しても概ね制海権はイギリス側にあったと言え、この状態は革命戦争が転換点を迎える一七七八年まで続く状態でもありました。

 この様な状態でしたからイギリス本国の海軍卿、第四代サンドウィッチ伯爵ジョン・モンタギュー(John Montagu)からは、植民地群の『反乱』を制圧するには海軍による海上封鎖が効率的だという意見もあったようですが、当時のイギリス政府首相であるフレデリック・ノース(Frederick North)には受け入れられませんでした。

 イギリス側としては、植民地の反乱はあくまで一部であり、少なからずのイギリス支持派(王党派、トーリー、あるいはロイヤリストとも呼ばれていました)が存在すると考えられており……事実、この革命戦争全般において植民地に住む人々の中でも少なからずのイギリス支持派の存在は大きな焦点ともなってくのですが……あくまで反乱制圧という形で、陸軍投入とそのための支援に海軍は使用されるままだったのです


 一方、植民地側はどうだったのか。

 ボストンを巡る包囲戦の最中、海上の警戒などのためにワシントンは地元にあった漁船(スクーナー)に武装を乗せ小型の武装商船とし、言わば陸軍所属の海上船隊(salt water navy)とも呼べるものを組織しています。

 この他、シャンプレーン湖でも湖上船隊(flesh water navy)が活動していました

 ちなみに後の一七七六年一〇月には、このシャンプレーン湖に展開するイギリス、植民地軍双方の湖上船隊による衝突(バルカー島の戦い、Battle of Valcour Island)が発生。

 イギリス側が勝利したものの、ここに至る戦いまでに双方艦艇を整備するなど時間を必要としたせいで植民地軍側もタイコンデロガ砦に立てこもったところで季節は冬となったためにそれ以上のカナダ方面に展開するイギリス軍の南下を押さえることに成功します。

 当時のアメリカ大陸における交通網として、湖上と河川は重要なものでした。

 ボストン北西、現在のバーモント州、ニュヨーク州、そしてカナダのケベック州に接するシャンプレーン湖は五大湖ほど大きくなくとも南北二百キロ、最大幅二十三キロもある巨大なもので、その南はハドソン川となってニューヨークから大西洋と繋がっている非常に重要なものでした。アメリカ植民地軍も、イギリス軍側も早々に船を建造して湖上船隊同士の戦いが繰り広げられましたが、ここでもアメリカ植民地軍側が敗北しています。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:BattleOfValcourIsland_watercolor.jpg (2023/01/31)


 この他、各植民地でも水上兵力整備への動きが始まっていました。

 開戦劈頭、幾つかの海上での小競り合いの結果をうけマサチューセッツ湾植民地議会は、海上の防衛を目的として植民地海軍の設置を決定します。最終的に一〇隻のスループ艦(十四~十六門の砲を搭載した二本マストの艦艇)の建造が認められ、これが後のマサチューセッツ湾植民地海軍(民兵)となりますし、これらの流れは各植民地群、ペンシルべニア、メリーランド、バージニア、ロードアイランド、そして南北カロライナでも見られ、彼らは独自の海軍民兵(船隊)へ準備なり編成が行われ、内海や淡水湖の警備や沿岸を航行するイギリス側商船の拿捕を目的としていましたが、明らかに十三植民地群の海上兵力は劣勢なままでした。

 ちなみにペンシルベニア植民地は海に面していないじゃないかというのはアメリカの地理に詳しい方なら気がつくでしょうが、ペンシルベニア海軍は大陸会議が置かれたフィラデルフィアに繋がるデラウェア湾からデラウェア川の防衛が目的でした。


 このような中で一七七五年の秋に行われた第二回大陸会議において海上兵力の整備が俎上にあがります。

 ボストンをいくら陸地側で包囲したところで自由に海上を行き来されてはたまらないですし、イギリス本土からカナダのケベックに送り込まれる軍需物資を手に入れたいという意見から、武装商船と海軍の設立を検討しだしたのです。

 ちなみにこの時点で先にもご説明したイギリス航海法は無視され、植民地の港は他国に解放されることになっていたこと、合わせて後にご説明する私掠許可については後程触れさせていただきます。

 もっとも反対意見も当然のごとく大きく、メリーランド代表のサムエル・チョイス(Samuel Chase)は「アメリカ艦隊を作り上げようなどとはまったくもって気狂い沙汰だ」と述べたとされますが、一方、バージニア代表のジョージ・ワイス(George Wythe)は、ローマ人とてカルタゴの戦いで初めて海軍を作り、カルタゴ海軍を打ち破ったではないかと反論したと書かれています

 大陸会議は一〇月一三日に、二隻の武装商船を準備する通達を出し、続けて二隻の準備も通達します。これが〈カボット〉〈アンドリュー・ドリア〉、そして〈コロンバス〉〈アルフレッド〉となる一方で、ジョン・ラングトン(John Langdon)、サイラス・ディーン(Silas Deane)、クリストファー・ガスデン(Christopher Gadsden)の三人による海軍設置のための必要な手立てを講ずるため海軍委員会(Naval Committee)を設置することも通達しました。

 のちに海軍委員会にはジョン・アダムス(John Adams)ら四名が加わり、七名体制となりますがすぐに三名が離脱しているとあります。


ジョン・アダムズ(1735-1826)

言わずと知れた合衆国第二代大統領。絵画は1792~3年の彼と書かれています。

『アメリカ海軍の父』とも書かれている書籍もあります。弁護士でもあり、アメリカ合衆国の憲法制定にも加わり、合衆国創設に置ける思想面、実務面でのリーダーでもあったアメリカ合衆国建国の父(ファウンディング・ファーザーズ)の一人でもあります。ジョージ・ワシントンに注目も浴びることも多いのですが、大陸会議以前からかなり重要な立ち位置だったことが伺いしれます。ただ、資料をよくよくみると、海軍委員会には在籍したものの、後の海洋委員会には在籍していません。

https://en.wikipedia.org/wiki/File:Adamstrumbull.jpg


NH 92866-KN First Foreign Salute to the American Flag

〈アンドリュー・ドリア〉が一七七六年一一月、西インド諸島のセント・ユースタティウスにあるオランダのオラニエ要塞から礼砲を受けた時の絵画です。これがアメリカにとって最初に受けた儀礼行為〈ファースト・サリュート〉とされています。船尾とフォアマストの頂上に掲げられた大陸会議の旗、「グランドユニオン」旗が描かれています。

この旗を巡るお話は後ほど語ることとしましょう。

https://www.history.navy.mil/content/history/nhhc/our-collections/photography/numerical-list-of-images/nhhc-series/nh-series/NH-92000/NH-92866-KN.html


 これら四隻の船は商船を武装化した、言わば現在でいう武装商船が大陸海軍最初の艦艇とも言えます。当時の商船は海賊や、あるいは後にご説明する私掠船からの自衛のため、ある程度の武装をしていましたから、戦列艦でもない限りその境目は曖昧なものだったのです。

 続いて十一月に大陸海軍、そして大陸海兵隊(Continental Marine)の設置が正式に決定します。

 同年一二月には海軍委員会は十三植民地群からそれぞれ代表1人が選出される海洋委員会(Marine Committee)に吸収された形となりました。

 海洋委員会は軍艦の建造などの許可を出す一方、艦隊・艦への命令、将校の任命などを行うものとされ、事実上の海軍省、そのひな形とも言えそうです。

 ここで階級と給与も設定され、大陸軍と準ずるものとされ、提督は准将、その他、艦長、海尉艦長、海尉がそれぞれイギリス王立海軍を模して準備されました。

 四〇門以上の大砲を搭載する船は艦長、二〇~四〇門は海尉艦長、一〇門から二〇門までは指揮権のある海尉(コマンディング・ルテナント)と定められ、合わせて人員構成も定まります。

 大陸海軍の陣容の多くは商船の船長かあるいは商船隊を率いた者達が加わっている形で、いささか縁故人事もあったのは事実のようですが、それでも経験豊富な人員が大陸会議側に馳せ参じました。

 大陸海軍の指揮官として、エセック・ホプキンス(Esek Hopkins)が任命され提督として就任しました。ただし、提督といってもAdmiralではなくCommodore、現在では代将と呼ばれる立場ではあります。

 ちなみにその部下としてホプキンス提督が乗るUSS〈アルフレッド〉の艦長は、ダドリー・サルトンストール(Dudley Saltonstall)、この艦の一等海尉(First Lieutenant、艦長次席、副官の立場にある士官)としてジョン・ポール・ジョーンズ(John Paul Jones)が乗り組みました。まあ、ただ選ばれた上級指揮官はだいたい大陸会議参加者の縁故だったのも事実ですが、これをもって能力が足りないという指摘もあながち言い過ぎというか、当時の議会に加わるメンバーはそれぞれの植民地の名士であり、経済的に裕福でしたし、裕福であれば当然海運関係にも携わっていたので、縁故が幅をきかせたとしても無理もない面もあります。

 ついで設立された大陸海兵隊指揮官はサミュエル・ニコラス(Samuel Nicholas)が海兵隊大佐(Captain of Marines)として就任し、ここにまがりなりにもアメリカ大陸海軍・大陸海兵隊は編制されることになりました。


ホプキンス提督の肖像画です。下部には「Commodore Hopkins」の文字があります。

https://en.wikipedia.org/wiki/Esek_Hopkins#/media/File:EsekHopkins.jpg (2023/01/29)


 大陸海軍の制服は一七七六年九月五日に定められており「キャプテン-青布、赤ラペル、スラッシュカフ、スタンドカラー、平黄ボタン、青ブリーチズ、赤ウエストコート、細いレース付き。……」と色々細かい規定があったのですが、どうも現場には好まれておらず、後にインナーが白に変わった、とあります。上の図はその経緯を記したイラストです。

https://www.history.navy.mil/content/history/nhhc/browse-by-topic/heritage/uniforms-and-personal-equipment/uniforms-1776-1783/_jcr_content/body/image.img.jpg/1485279993170.jpg

(2023/01/24)


 ちなみに大陸海軍ですが大陸海兵隊法令では二個大隊編制とされていましたが実際には五個中隊による一個大隊のみで、改めてニコラス海兵隊大佐による徴募が行われ、四個中隊が編成されたと記述があります。


 ……さて、海兵隊とは何のためにあるのか。この時代を舞台としたホーンブロワーなどを初めてとする海洋時代小説か、あるいは〈マスター・アンド・コマンダー(Master and Commander)〉(2003年)といった映像作品を見た方であればイメージもわきやすいかもしれません。

 当時の海兵隊の役目は、艦に乗り組み艦内の秩序維持及び接弦戦闘時の戦闘要員などの武装兵であり、当時の海軍艦艇には欠かせない要員だったのです。


 時代が下がってナポレオン戦争の時の、有名な〈トラファルガー海戦〉で、ホレイショ・ネルソン(Horatio Nelson)を描いた絵画、「The Fall of Nelson, Battle of Trafalgar」です。画の右中央で倒れこんでいるネルソン提督がいて、彼を起こそうとしている赤い上着が、英国海兵隊員です。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:The_Fall_of_Nelson,_Battle_of_Trafalgar,_21_October_1805_RMG_BHC0552.tiff (2023/01/24)


 ちなみに南北戦争当時の大陸海兵隊の服装は切手で描かれているように、緑のコートに白いフェイシング(襟、カフス、コート裏地)を付け、当時の接舷戦闘時で良く使われた片手刃(カットラス)の斬撃から首筋を守るために、革製の高い襟を付けており、これが海兵隊の異名でもある「レザーネック」の由来ともなりました。

 ただ、外套が緑色になったのはそれほど深い理由はなく、当時のフィラデルフィアで緑色の生地が余っていたからだという記述もあるのですが、定かではありません。

https://en.wikipedia.org/wiki/File:Military_Uniforms_Continental_Marines_10c_1975_issue_U.S._stamp.jpg (2023/01/24)


 大陸海軍、大陸海兵隊の最初の(本格的な艦隊行動を伴う)戦いは一七七六年三月のナッソー襲撃(ナッソーの戦い, Battle of Nassauとも)でした。

 大陸会議において当時、緊急を要する問題は軍事行動に必要な様々な軍需物資の掌握でした。購入するための予算もすぐに手当がつくわけではありませんので、当座、アメリカ本土にある軍需品を手に入れようと画策します。

 折良くイギリス側がバージニアにあった倉庫からバハマへ軍需物資を運び出したことを知った大陸会議は、編制されたばかりの大陸海軍艦隊を差し向けることを決定しました。

 ただこれはどうも記述が一定しておらず、当初、カロライナ方面など沿岸警備を命ぜられたホプキンス提督の独断だったのか、大陸会議の密命だったのかはっきりとしません。これは後に騒動になりますが、後程語ると致しましょう。

 ともかく一七七六年の二月にフィラデルフィアを出港した大陸海軍四隻の艦艇は、途中、チェサピークで四隻の小型艦と合流。途中、一隻が故障により帰投するものの、残り七隻でバハマにある島、ナッソーへと向かい、海兵隊二〇〇名と水兵五〇名を上陸させます。

 これがアメリカにとっての最初の水陸両用作戦でした。彼らは損害なく上陸し、ナッソーにある砦の一つを制圧、無血入場を果たします。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Battle_of_Nassau.jpg (2023/01/24)

 と、ここまで書くとナッソー襲撃は大成功、となるのですが実態をよくよく読むとそうではないことがわかります。実はナッソーに保管されていた火薬の大半は、大陸海軍襲撃を知った現地指揮官の差配でまんまとその大半、二〇〇バレルの火薬が収まった樽、一六二個が夜にイギリス海軍の船で運び出され、大陸海軍艦隊が手に入れたのは積み残された三八個のみというのが実情でした。

 お粗末なことに、大陸海軍の艦艇は揃ってナッソーの港を封鎖もせずに艦艇を六海里ほど離れた沖合にあるハノーバー湾に錨泊していたためでした。

 ただそれでも無血で火薬を獲得したのは確かだったので成果は上げた、と見るべきでしょうか。その後、乗組員の中で疾病が蔓延したようで、苦しみながら帰途につくことになります。その間、二隻のイギリス船舶を拿捕することにも成功しました。

 当時を舞台にした海洋小説を読んだ方はご存じかもしれませんが、そうなるとこの拿捕船を操舵するための人員も乗組員から割かねばなりませんから、より一層、乗組員は払底したようです。

 大陸海軍艦隊は北上を重ね、チェサピークやフィラデルフィアではなく、ニューイングランドの、ロードアイランドにあるプロビデンスへと向かう中、一七七六年四月六日、ロードアイランド沖合にあるブロック島南東沖合でイギリス王立海軍のフリゲート艦、HMS〈グラスゴー〉に遭遇します。

 これがイギリスとアメリカの初の本格的海戦、ブロック島沖の海戦(Battle of Block Island)となりました。

 もっとも、戦いはHMS〈グラスゴー〉側に主導権があり、大陸海軍はその練度の低さもあいまって終始、ドタバタとした戦いぶりだったと記されています。……結果的にHMS〈グラスゴー〉を取り逃した大陸海軍側の損害ばかりが目立つ結果となったのがこの、革命戦争劈頭の戦いでした。


 この後の大陸海軍の戦いを記述したいところなのですが、満足な艦隊行動は革命戦争前半はこれっきりとなります。

  あとはロードアイランドのプロビデンス港など、それぞれの港に封じ込められた形となり、以後は運良く突破出来た単艦での行動ばかりとなるのでした。


 さて、ナッソー襲撃から一連の艦隊行動に参加した艦艇は商船を改造した、言わば武装商船だったわけですが、海軍委員会は大陸海軍編制直後から、武装商船ではなく新造艦艇……一三隻の各種フリゲート、三二門(五隻)、二八門(五隻)、二四門(三隻)をそれぞれ新造するよう承認していました。

 かくして大陸海軍の水上兵力はかくして創設されることになる……のですが、実のところを言えば、十三隻のフリゲートの行く末は散々なものでした。

 建造先であるドックがあったニューヨーク、フィラデルフィア、サウスカロライナのチャールストンはそれぞれイギリス軍に占領されたため建造中の艦艇が完成を見ずに失われました。それでも八隻の船の建造が各地で行われ、木材の不足や乗組員の不足に苦しみつつも完成し出撃するのですが、海に出られたフリゲート艦の全てがイギリス海軍の手によって大半が拿捕されるか破壊されてしまったのもまだ現実でした。 


 NHHCにある、大陸海軍艦艇のリスト(の抜粋)です。大半が一七八〇年までには沈められるか拿捕されているかがわかります。 

すべてではありませんが、NHHCに記載されている大陸海軍運用艦艇(の戦没)リストです。その多くが一七七七前後に撃沈されたか、降伏・拿捕されていることがわかります。

https://www.history.navy.mil/research/library/online-reading-room/title-list-alphabetically/v/vessels-of-the-continental-navy.html (2023/01/31)


 もともと数的にも練度的にもイギリス王立海軍側が優勢だったのが革命戦争での前半で、その中で大陸海軍は総じて苦しい戦いを繰り広げていた以上こうなるのも致し方ないとは言えそうです。


 また問題も色々とありました。

 ナッソー襲撃後の結果、大陸会議ではホプキンス提督を巡る二つの醜聞が取り沙汰されることになります。一つは、ナッソー襲撃を巡る命令違反でした。そもそも最初の命令書ではバージニア、そしてカロライナ周辺でイギリス艦隊との戦闘を命ぜられたのですが、その命令書では「彼ら(イギリス艦隊)が(大陸海軍より)劣勢であると判断した場合(中略)そこで見つけることができるすべての敵の海軍力を探し出し、攻撃するか奪うか破壊せよ」と書かれたあと、不測の事態にかぎり、「貴官の最善の判断でアメリカの大義に最も役立つと思われるコースに進み、あなたの力の及ぶ限りの手段で敵を苦しめよ」という内容でした。

 ホプキンスの判断は、最後の一文「最善の判断」で、ナッソー襲撃を行うことを定めたというのが本当のところだったのです。

 結果的には最後の海戦で(案の定)ミソを付けた形となったものの、襲撃そのものは成功し、大陸会議議長であるジョン・ハンコック(John Hancock)は彼を賞賛するのですが、大陸会議のメンバーらは命令を無視して独自の艦隊行動を行ったホプキンスの指揮に疑問符をつけます。

 さらにはブロック島沖の海戦でHMS〈グラスゴー〉を取り逃した指揮についても問題視していましたし、それ以上に度重なる戦意不足、命令違反が大陸会議のメンバーの中では不満だったと見られます。ただホプキンスには別の意見もあり、配下の艦長に問題があるとされ、幾人かの艦長が更迭されてもいます。

 そして二つ目の問題がより深刻でした。このナッソー襲撃の最中に拿捕したイギリス軍艦に乗っていた乗組員を捕虜とし虐待したという内部告発が行われたのでした。この問題もふくめ消極的で行動しないなどホプキンスに対して人望が損なわれ、乗組員の士官らが解任要求の嘆願書を出すほどの有様でした。

 大陸会議はこの問題をうけて、内部告発者保護法を制定することにもなるのですが、これにの問題を受けたためかホプキンス提督は一七七八年一月に離任することになります

 ホプキンス提督の代わりは、〈アルフレッド〉の艦長であるサルトンストールがついたものの、彼もまた一七七九年八月、マサチューセッツ植民地海軍を指揮して行ったメイン植民地へのプレスコット遠征で参加した艦艇十九隻・輸送船二五隻すべてが撃沈あるいは拿捕される大損害を出した責任を問われて大陸海軍を辞めさせられています(ただ、これをもって無能とは言い難く、彼は後に私掠船に乗って色々活躍しているのも事実です)。

 このように大陸海軍の動きは大陸会議の思惑とは別に艱難辛苦、色々とままならないのは事実だと言ってもいいでしょう。

 そんな活動として低調だった大陸海軍とは裏腹に、活発的な動きをしていたのは何度か記述している私掠船だったのです。


0 件のコメント:

コメントを投稿