十七世紀末、一六八八年から北米大陸を舞台にした英仏の争いが本格化していくことになります。ウィリアム王戦争(一六八八~八九年)、アン王女戦争(一七〇二~一七一三年)、ジョージ王戦争(一七四四~一七四八年)という名前は日本ではほとんど知る方もいらっしゃらないでしょうが、北米大陸を舞台にした戦争が繰り広げられていました。
この他、先住民族との衝突戦争もあったのですが割愛しても良いでしょう。
一七五〇年あたりのアメリカ大陸における欧州諸国の勢力図は以下の通りでした。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Nouvelle-France_map-en.svg (2023/1/16)
実はこの時期の北米大陸を大きく手中に収めていたのはイギリスではなく、フランス北米領ヌーベル・フランス、だったのです。フランスはアメリカ大陸北部のセントローレンス湾へと流れ込むセントローレンス川を遡上し五大湖に到達。さらにそこからオハイオ川を下ることで北米大陸を縦断し、メキシコ湾にまで繋がるミシシッピ川流域一帯の占有を宣言していました。
もっとも英国植民地ほど植民は進まず、広大な土地をごく僅かな植民とネイティブ・アメリカンの各部族たちが住むだけだったのが実情のようで、記録には一七五〇年あたりで人口一〇万人弱と少ないものでしたが、英国植民地群にとっては人口増加のために西方へ拡大し続ける一方、必然と衝突する道をたどることになります。
これがフレンチ=インディアン戦争(一七五四-一七六三年)という戦いとなります。
イギリス軍及び植民地の民兵軍はヌーベル・フランス領内の五大湖周辺のインディアン(先住民族)とも衝突を重ね……これは戦後も継続しますが……この一連の戦いを表す名前として、フレンチ=インディアン戦争とアメリカ国内で呼称されることになったわけです(「フレンチ・アンド・インディアン戦争」とも呼ばれることもあります)。
敵はフランスとインディアン(ネイティブ・アメリカン)だったと言いたいわけですが、当時英国側に立った先住民族の部族もいたわけで、正しい呼び方かと言われると疑問の余地はあるのですが……。
ただこの時期、世界史というスケールでみればイギリスとフランスはそれぞれ世界の覇権を握るための、一六八八年からナポレオン戦争が終結する一八一五年まで続く第二次百年戦争の真っ只中で、このフレンチ=インディアン戦争は、世界各地の領土、植民地を巡って衝突する最初の『世界大戦』でもある七年戦争の始まりを告げるものでした。
……実は先のウィリアム王戦争から続く戦いをまとめて北米植民地戦争と呼び、英語ではFrench and Indian Warsと呼ぶ資料もあって、こちらではWarsとなっているので区別が必要です。
七年戦争では欧州大陸ではプロイセンとオーストリアの戦いにイギリスがプロイセンに、フランスがオーストリアについて戦い、ロシアなども加担。世界に散らばる植民地でそれぞれ戦いが繰り広げられることになったのですが、北米大陸の戦いも重要なものでした。
これはこの後のアメリカを形作る戦いへの序曲のようなものだったのです。
もっと重要な話をすれば、この戦いにはバージニア植民地で生まれたある若き士官が戦いに加わり、フレンチ=インディアン戦争の最初の戦いで指揮を行っていました。
その若き士官の名はジョージ・ワシントン(George Washington)と言うのですが、彼が歴史の表舞台に出てくるのはもう少し後になります。
北米大陸で繰り広げられたフレンチ=インディアン戦争はフランスが敗北したことで英国によりヌーベル・フランス中央~北部を奪われ、ヌーベル・フランス領のメキシコ湾に接する南部は維持することが難しくなったためスペインへ引き渡されます(この他、フロリダもイギリスの手に落ちます)。
上の濃い部分がイギリス(植民地)、ミシシッピ川(中央)以西のヌーベル・フランス領がイギリス獲得領となり、フロリダからメキシコ湾周辺がスペイン、後にイギリス領となります。このように北アメリカ大陸の半分をイギリスが手中に収めたのが一七六三年前後の話となります。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:NorthAmerica1762-83.png (2023/01/16)
さて、七年戦争のきっかけでもある領土も増えて万々歳、と行かないのが世の定めというか、この勝利が必然とアメリカ大陸の次なる騒乱を呼ぶことになります。
この結果、アメリカ革命戦争へと至る道が作られた、と言うべきでしょうか。
まずアメリカ大陸東の十三植民地群は増加する移民者の入植先として西方に狙いを定めていました。ヌーベル・フランスの瓦解後、自分たちの新たな入植地(フロンティア)として見るのは無理もない話でした。
一方、イギリス本国は七年戦争で実質の勝利を得た一方で、世界帝国を維持するための経費に喘ぎ始めます。七年戦争は終わってもフランスとの衝突は続き、戦費が必要になっていましたので、出来ればアメリカ大陸の統治をより本国側へと傾けることで税収による歳入増加を求めだしました。
あわせて旧ヌーベル・フランス領の統治も含め、先住民族対策も頭の痛い問題で、西方への発展は漸進的に行おうと考えていて、ここに北米十三植民地群との対立がおきることになったのでした。
百年以上続いた植民地開拓時代、基本的に十三植民地群は各々の自治によって行われていたのですが、英国政府は彼らに対して権利の前に義務を求めることになります。
すなわち重税の始まりでした。
これらの動きは七年戦争前から既にあって一七三三年に定められた糖蜜法がありました。サトウキビから砂糖を精製する際に生じる糖蜜は、ラム種の原料ともなるものです。
糖蜜法では、英国以外からのラム酒の輸入禁止と糖蜜の輸入に高い関税が課されるもので、なぜこうなるのかと言えば、すべては当時大西洋で繰り広げられていた三角貿易が理由です。
一般的な三角貿易では英国はラム酒や繊維製品、武器などを西アフリカに送り、西アフリカは労働力となる黒人を西インド諸島、北米大陸へと送り、西インド諸島・北米大陸は砂糖や綿花を欧州へと送る形ですが、その逆もありました(下図参照)。
ちなみに北米大陸は農産物や魚介類を西インド諸島へ、西インド諸島は砂糖や糖蜜を英国へ、英国は工業製品を北米大陸や西インド諸島へ送るという一連の流れもありました。
三角貿易は単純なモデル化されたイメージのようなもので、一隻の商船が大西洋をぐるりと回る、と想像しがちですが、実際のところそれぞれの航路別に専用の船、船団が航行されていたケースも多かったようです。ただ、一隻で行う場合、概ね一周するのに一年を要したようです。
で、ここでラム酒が絡んできます。当時、北米大陸へ送り込まれる黒人奴隷への支払いはラム酒で行われており、この製造のためには糖蜜が必要だったわけですが、西インド諸島からの砂糖の輸入に関税がかかると当然ラム酒の製造コストは跳ね上がるし、英国からしか購入できない状況もありながら、他国(フランス植民地などから)ラム酒の輸入ができないことは、十三植民地群にとってかなりの負担となります。
輪をかけて面倒だったのはイギリスの輸出入に用いる船舶は、イギリスあるいはイギリス植民地で作られた船であること、さらにはヨーロッパ行の船便でもイギリス本国を経由するなどを定めた航海法も一六五一年から存在しており、英国による植民地への負担は増していく一方だったのです。なので密輸もかなり横行していた模様です。
従来よく言われる「三角貿易」の図です。
① イギリス(欧州)は、西アフリカに対してラム酒や繊維製品や工業製品、武器を送る。
② 西アフリカは西インド諸島・アメリカに黒人奴隷を送る。
③ アメリカはイギリス(欧州)に砂糖、タバコ、綿花を送る。
https://en.wikipedia.org/wiki/Triangular_trade#/media/File:Triangle_trade2.png
昨今、北米ニューイングランドを頂点とした三角貿易もあった、とされています。
① ニューイングランドからラム酒や加工品が西アフリカへ送られる。
② 西アフリカからは黒人奴隷が送られる。
③ 西インド諸島からは砂糖(糖蜜)が送られる。
という形でした(ただ、限定的だったとされる意見もあるようです)
https://en.wikipedia.org/wiki/Triangular_trade#/media/File:Triangular_trade.jpg
ですが、この航海法は後の合衆国海軍の遠い恩恵の一つともなります。
先にもご説明したように当時木造船を建造するために必要な良質な木材の入手が欧州では難しくなりつつあったのです。何しろ大洋を航海する船は大型化する一方、なのに必要なナラの木を船に使うためには、オーク材(ヨーロッパナラ)ですが、この育成は二〇年~三〇年、良質さを求めるなら五〇年は育成に必要なものだったのです。
そのため、スペインのフェリペ二世は一五七四年にに「造船及び森林保護監督官(la superintendente de construcción naval y fomento forestal)」という役職まで作って、造船業の並行して森林の伐採などを管理する責任者を準備しているほどなのです。
その点、アメリカ大陸は入植されたばかりで手つかずの良質な木材が豊富にあったことも大きかったのでしょう。
アメリカ国内で入植島嶼から造船が行われていたと資料にありますが、本格的に造船業が広まるのは一六四〇年代あたりからだったようで、英国から船大工を呼び寄せ建造が始まると、最初は十三植民地群の沿岸を航行するところからはじまり、中小型の貨物船建造が行われるようになると次第に建造能力が向上していったようです。
マサチューセッツを中心に造林業が盛んで、杉、楓、白松、スプルース、オークといった木材が豊富にあったことから建造費は本国の半分以下だったようで、このことも追い風となりました。
植民地時代のバージニア州における建造風景です。恐らく初期のものを絵にしたのでしょう。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Early_Ship_Yard.jpg (2023/01/20)
マサチューセッツ植民地の都市、ボストンでは数多くの造船所が造られていたことが当時の地図からもわかります。
植民地時代、革命戦争直前の一七七五年、ボストンの地図です。
当時のボストンの中心部であったシューマット半島が都市となっており本土とは細い地峡と繋がっています。東部一帯に多くの突堤があり造船業が盛んだったことが伺いしれます。
現在のボストン市街は埋め立てが進み、当時の面影はまったくありません。興味がある方は地図でご確認されると良いでしょう。
https://en.wikipedia.org/wiki/File:Boston,_1775bsmall1.png 2023/01/19
のちに一六九〇年には英国によって軍艦の発注も行われ、ニューハンプシャーのニューキャッスルにあるホランド社が受注した五〇門の大砲を装備した戦列艦、四等軍艦〈フォークランド〉の建造が行われています。
もっとも安価な造船業の活況のために、マサチューセッツ周辺の木材資源は払底していったと記録にもありますが、革命戦争前夜、イギリス全体で建造される船腹量の半分がなんとマサチューセッツを中心とするニューイングランド全体で建造されていたとあります。
後の大陸海軍、そして後の合衆国海軍に必要な艦艇の提供に支障がなかったことはアメリカにとっては幸運なことでした。
……このようにイギリス植民地群での経済発展にあわせて造船業が勃興していくきっかけの一つがこの航海法でもあったわけで、この事は後の大陸海軍、そして海軍創設に大きく関わっていくことになります。
さて話を戻して、英国本土政府の北米植民地に対する政策についてご説明すると、戦争後の重税政策は矢継ぎ早でした。
一七六三年に糖蜜法に代わって砂糖法が成立します。ラム酒の輸入が禁じられ、糖蜜への関税は引き下げられるのですが、反対に砂糖の関税は引き上げられます。合わせて嗜好品(ワイン、絹、コーヒーなど)の輸入にも関税がかかることになりました。
糖蜜法の時代から密輸取り締まりは強力に行われていたのですが、砂糖法でもより糖蜜への関税を下げることで密輸の需要を減らそうという意味もありました。
続いて一七六四年には印紙税法が制定されようとしていました。この法案では植民地群で印刷されるありとあらゆるモノ――それこそ、法的な書類から、新聞広告、パンフレットに至るまで――に対して印紙を購入し、貼る必要があるとされました。印紙は税関吏が徴収し、その収益は植民地の「防衛、保護、および安全保障」のために使われるもの、と定められます。
このような関税や重税がのしかかることに対して植民地側の商人たちを中心に反発します。彼らはこの課税が「代表無き課税」であると訴え、暴力的な反対行動まで発生。貿易へのボイコットも辞さないことを恐れた英国側商人も同調。結果として印紙税法は廃止され、砂糖法を修正するに至ります。
つづけて十三植民地からは先の「代表無き課税」についてイギリス本土政府(議会)からの課税は無効であるという意見が上がり始めます。
「代表無き課税」とはなんぞや、と言われると、もともとイギリスでは「人民が自ら選出した代議士の承認無しに政府が人民を課税することは不当である」という不文律がありました。いわゆる一三世紀から続く大憲章(マグナカルタ)にも記されている伝統でもあったわけです。
さらに植民地の入植は英国王からの免許状をもって行われており、議会の設置も同様である以上、植民地の代表は英国王である。にも関わらず植民地議会が英国本土の法案を可決する権利を有しない現状では、イギリス議会もまた植民地に対する課税をめぐる法案を可決する権利を持ち得ないのではないか――代表権を植民地に認めるか否か? そういう理屈でした。
まぁわかりやすく言うならば、自治政府もあり裁判所もある植民地の頭ごなしに増税などを決める権利はイギリス議会にはないし、植民地からの代表が議会に存在するわけでもない。そもそも我々はイギリス本国と並列なんだろう? というのが意見の本質でした。
棄民のように新大陸に送り込んで、都合の良い時だけ税収を上げるやり口が受け入れられず、(特に北部の)ニューイングランドではその形成故か国王や国教会の威光よりも契約などが重んじられるところがあったのも事実です。
……もっともこの意見はイギリス議会からは相手にされません。先の戦いでもそうですが、軍事負担を行いつづけていたのは本国イギリスですから、応分の負担をすべきという意見はもっともな面もあります。
このためイギリス議会は続けて、宣言法を定め「いかなる場合においても」植民地を拘束する法律を制定する権限を認めるものとしました。当時の議会はトーリー党(王党派)が中心でイギリス国王ジェームズ三世を支持しており、北米大陸植民地の権利については頓着しない状態だったのも一因ではあります。
十三植民地群において、イギリス議会及び国王の振るまいは、有り体に言えば中央政府からの圧政にほかなりませんでした。これはアメリカの政治思想的に連々と繋がる中央政府に対する忌避感・嫌悪感の始まり、でもあったとも言えます。
決定打は一七六七年のタウンゼント諸法で、この法案では印紙税法と異なり、英国本土からアメリカ植民地への輸入品(紙、ガラス、鉛、および紅茶)に対して関税をかけることは合法であるとの立場でした。これにより歳入を安定させ、植民地統治の財源とすることをもくろんだのですが、当然十三植民地からは猛反発を受けます。
――そう、これがかのボストン茶会事件の導入となるわけです。
さて、ボストンでは税関吏に対する暴力から守るためという名目で英国本土から二個連隊が派遣されます。これによりボストンでは英国軍兵とボストン市民との対立が発生。
些細な行き違いと誤解がもたらした衝突が発生し、一七七〇年の三月にボストン虐殺事件が発生します。
虐殺、となると仰々しいのですがその実情を知るといささか腰砕けになります。英国士官が散髪代金を納めないと苦情を言い立てたのがきっかけで(実際は払われていました)、応対した英国弊が苦情を言い募る市民を殴打。これを見たボストン市民が英国軍に石や氷の塊を投げ込みます。この動乱の最中、氷の礫が当たった兵士が倒れてしまい、英国軍兵士が発砲を開始。結果的に五人の死者が発生します。正直、虐殺というからにはもっと大規模かつ遠慮のないものかと思いきや、正直不幸な衝突事故としかいいようがありません。そのため英国軍では裁判が行われますが、結果的に参加した兵士の何人かが微罪として裁かれただけだったのですが、この事件を契機にマサチューセッツ植民地では独立の気運が高まるようプロパガンダに用いられることになります。
ちなみにこの裁判で英国兵士の弁護にたったのが第二代大統領で合衆国海軍創設の立役者の一人でもあるジョン・アダムス(John Adams)でした。
彼はのちにこの事件の裁判について 「私の人生の中で、最も勇敢で、寛容で、人間的で、公平無私な行動であり、また国に対して行った最善の行いのひとつであった」と述べるぐらいには、まぁ、気高い行為でしたが、この事件が独立への契機になったことも認めています。
さて、この事件を受けて英国政府・議会は幾分態度を軟化させる為もあって結果的にタウンゼント諸法は取り下げられるのですが、ただ一つ、嗜好品である紅茶についてだけは関税処置が成されます。これが火種になっていくのでした。
※指摘があり、ボストン茶会事件のパートを修正しています(2023/03/05)
一七七三年。イギリス議会は財政危機に陥った東インド会社の支援のため、北米植民地での紅茶の独占販売権を認める茶法を成立させました。当時の北米植民地において紅茶はオランダ産の密輸品が横行していたのですが、茶法の成立により東インド会社産のものが密輸品よりも(ごく僅かとはいえ)安く提供されることになります。しかも、荷揚げの時の税金は地元輸入業者が支払うものとされていました。 政府の中では関税撤廃を求めていた者もいたのですが、これを認めてしまうと植民地に対して誤ったシグナルを生じかねないという問題もさることながら、紅茶の税金収益が植民地を統治する総督らの給料の財源として使われていたことも一因で認めれませんでした。 一方の植民地側も危機感を募らせる一方でした。オランダ産の紅茶を密輸していた商人、東インド会社から委託販売できなくなった商人、そしてこの将来的にこのような方法が他の商品にも拡大するのではないかという恐れもあり、荷受人らへの圧力が強まる一方でした。このため荷受人が辞退する形になり、結果的に東インド会社の紅茶の大半は船に積まれたまま本国へ戻ることになるのですが、ボストン港だけは事情が異なり、総督は関税を支払われるまで出航を認めず留め置かれることになります。これに愛国的急進派、別名自由の息子達が反発。船を襲撃し、ボストンの港へ紅茶を投げ込む事件が発生しました。
※修正終わり
これがいわゆるボストン茶会事件です。
ご丁寧に彼ら「自由の息子達」は皮肉にも先住民族モホーク族の装束に身を包むという形でした。自分たちが排除した先住民族に身を隠してというのも中々思うところはあるのですが……。
この事件を知ったジェームズ三世のみならずイギリス議会は態度を硬化。
マサチューセッツ植民地議会を認めず、自治権へと介入するために数々の法案を議決します。あわせて各地の植民地議会を認めず、各植民地に総督を送り込む、あるいは強権を振るう人物を就任させる人事を行います。この他、現地のイギリス軍の宿舎などを準備するのを義務づけるなどと言った数々の法を打ち出していきます。
これがアメリカ植民地側をして「耐え難き諸法」と呼ぶ一連の法案で、イギリスとの対立を呼び起こすことになるのでした。
このイギリス側の対抗策に危機感を抱いた植民地群は一七七四年九月、バージニア植民地議会の音頭により各植民地代表がフィラデルフィアに集まります(ジョージア植民地だけは参加せず)。
これが大陸会議(Continental Congress)の第一回会合でした。
彼らはイギリス議会からのこれら諸法の適用は自分たちの権利「生命、自由、財産」の侵害であり植民地議会の軽視であるという立場で概ね一致し、結果「大陸連携(Association)」として連携することが定まります。
無論、この段階でも十三植民地側の中には穏健派も数多く存在しており、彼らは対話と譲歩をもって事の解決を望んでいたのも事実でしたが、この希望は結果的に適いませんでした。同年同月、温和かつ理想主義でもあったクエーカー教徒らの事態の収束を願う歎願を受け取ったジェームズ三世は歎願について嘲り、このように語ったそうです。
「いま、賽は投げられた。植民地には屈服か勝利のいずれかしか道はない」
――かくして衝突は確定的となるわけでした。
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