さて初の恒久的植民地のジェームズタウンを巡る物語にはディズニーの映画のモデルともなっているポカホンタスなどの興味深い話もあるのですが、本筋ではないので省略しましょう。
恒久的植民地となったこのジェームズタウンのあるバージニアでは以後も植民と開拓が進むことになり、十三年後の一六一九年には早くもこのバージニアで最初の植民地議会が開催されます。
そしてもう一つの出来事もこの年に記録されています。
イギリスの私掠船が、ポルトガルの奴隷船から略奪した二十余名の黒人をつれてきたと記されているのです。一六二〇年に行われた人口調査では黒人男性一五名、黒人女性一七名がいくつかの農園で仕えていた。とされており、皮肉にも、一六一九年にはアメリカを象徴する自治議会、すなわち民主主義と黒人奴隷という、その後のアメリカの光と影のような二つがすでに現れていたと言えそうです。
……ともかくバージニアを皮切りにその後も英国主導による植民地は各所に造られますが、その一方で、欧州各国も同様に北米大陸へと入植していました。
例えばオランダは現在のニューヨーク突端をニューアムステルダムと定め、周囲をふくめてニューネーデルランドと呼びました。この他にもスウェーデンからも植民が行われます。
とはいえ英国側の植民政策がわりと強力かつ大量に行われていったのは事実で、次第に十三にまとまった地域、自治政体をもつ植民地が並立することになりました。
ただ一般に植民地と言ってもその成り立ちは各々、微妙に異なっていました。
先にも書いたようにメイフラワー号に乗った人々のように――欧州で発生していたマルティン・ルター(Martin Luther)やジャン・カルヴァン(Jean Calvin)らによる宗教革命の流れを受けて発生したイギリス国教会内での改革派、つまり清教徒(ピューリタン)たちが迫害から逃れるように、アメリカ大陸へと渡り、彼らは巡礼父祖、ピルグリム・ファーザーズ(Pilgrim Fathers)と呼ばれるのですが――自発的な植民によってつくにれたプリマスのような「社会契約に基づく植民地」、バージニアのように国王の免許状を受けて社団(企業・組合)による「自治植民地」、イギリス国内の貴族が国王の免許状を受けて作った「領地植民地」など、その経緯により植民地にも違いがありました。
ちなみに最初期の「社会契約に基づく植民地」は後に自治植民地に吸収され、最終的には植民地のほぼ全てが、国王の代理人たる総督が統治する「王領植民地」へと変化します。
……ただこれらの植民地の多くは経済事情も、また住民構成も異なっていました。
例えば先にご説明したバージニアはジェームズ一世時代の特許状により植民が行われたことから王党派の流れを組む一方で、より北部のマサチューセッツ植民地は同様に企業主導による自治植民地でしたが、さらに元を辿れば自発的植民地、プリマスなどの流れがあるために清教徒が多いために契約主義的な面もあり、これが後の革命戦争へと繋がる思想的な面でのはじまりでもありました。
一方で、ニューヨーク植民地などは、王の特許状を得たヨーク公がニューネーデルランド、すなわちオランダの植民地を占領する形で行われた他、その西方地域ではウィリアム・ペン(William Penn)が国王の免許状をもとに〈ペンの森 Pennsylvania〉、すなわちペンシルベニア植民地となるのですが、ペンが清教徒革命から端を発した理想主義的かつ穏健派でもあり禁欲的でも知られる敬虔なクェーカー教徒であったことから、かの地にはクェーカー教徒が多く移住していくことになります。無論、それだけではなくカソリック教徒、あるいはフランスのユグノー教徒などが南部を中心に植民していました。
このように、現在の合衆国州の基礎となる植民地(コロニー)はそれぞれの成り立ちも、ましてや宗教も異なる多種多様な植民地群でもあったのです。
これら植民地の内情はどうだったでしょうか。
まず新大陸へ渡ってきた人には大きくわけて三種類のケースがありました。一つは先にもご説明した清教徒やクェーカー教徒に代表される宗教上の理由、あるいは経済上の理由により移民を選択した「自由移民」、そして高額な渡航費用を立替えてもらうかわりに四年など、定められた年数を決められた場所で働く「年季契約奉公人」、そして最後に重罪人などの「流刑囚」で、概ね比率的に5対4対1でした。
自由移民が比較的裕福な立場電子書籍版、家族単位で移民してきたのですが、その反面、年季契約奉公人はイギリス国内での下層階級、二〇代前半の独身男性で、故郷で職にあぶれて都市部に流入する一方だった彼らをひとまとめにして新大陸へ送り込み、人的資源の再配置を目指したとも言えそうですが、彼らの多くは人手が必要な中南部の植民地へと送り込まれることになりました。
過酷な中南部の自然環境は病気などにもかかりやすく、渡った人々の三割が亡くなったのですが、必然と生き残った人々は免疫を獲得したせいか長命だったとも言われています。
傾向としては北部の自由移民たちが多い地域では、家族単位の移住のためか生まれる子息の数が多く血族的な流れが強くなる一方、南部では逆に一家族あたりの子供の数は少なく、寡婦などの社会的支援などもあったために、異父母兄妹などが多く存在する家族など多く見られたそうです。後に年季契約奉公人は減少していくのですが、その結果、人手を確保するために黒人奴隷を多く使用することになるのも、こういった事情からでした。
そして、あまりここまで触れていませんでしたが先住民族の問題はさらに根深く存在していました。白人植民地域が拡大すれば必然と逐われることになるのが彼らでした。彼らは時に協調し、やがて反発し、そして、その後ご説明する欧州各国、あるいはアメリカ植民地群との争いに否応なく巻き込まれていくことになります。
海軍史という立場であまり関わることのない先住民族については、本書ではあまり記述いたしませんが興味のある方は是非、アメリカ史などを読んでいただきたいところです。
のちに大半が王領植民地となると先程書きましたが、これらの植民地の統治方法はどうだったかと言うと、国王の代理人である総督の指示によって植民地議会が招集されており、イギリス本国議会同様、参議会(上院)・代議会(下院)の構成でかなりの自治が認められていました。ただ、場合によりイギリス本国の国王を補佐する枢密院により植民地議会の立法が無効とされる場合もあったようです。
しかもこの議会は、現在の議会の役目、民衆の代表たる議員が意見や利害の対立を解消するためのもの、と言うより、地域の有力者達による儀礼的な――すでに経済的な格差により支配・被支配の階層が成立していたため――側面が色濃かったようです。
そして植民地内の地方行政単位は郡(カウンティ)として形づくられ、郡庁がおかれ治安判事、保安官、警吏が任命・選挙で選ばれるものとされました。これはイングランドでいうところの州(シャイア)と同様でした。
一般に植民地(プロヴィンス)の語源はローマ時代の属州(プロヴインキァ)になるのですが、新大陸の十三植民地はイギリス本国から見れば、「州」の規模である「郡」の集合体でもあるある意味、「国」のような経済・人口圏だったと言えるでしょう。
事実、この十三植民地群は後に「邦(State)」そして「州(Sate)」と名を変えつつもそれぞれ独自の憲法、議会を有する形となるのでした。
ちなみに現在、マサチューセッツ、そしてペンシルベニア、バージニア、そしてケンタッキーの各州は日本語ですと「州」ですが、英語ではStateではなく各州憲法で定めるところのコモンウェルス(Commonwealth)――日本語ではイギリス連邦と区別するため米国州と和訳されていますが――とされています。
コモンウェルスそのものの語源は、民衆の「共通の (common)」「富 (wealth)」ないし「福祉 (welfare)」を意味しており、共和国(Republic)の古い言い方でもあります。つまり、彼らは合衆国内を構成する州、というより自治共和政府であると任じているのでしょう。
また彼ら植民地の多くで、先にアメリカ大陸に住む先住民族たちからの協力もいつしか衝突が深刻となり(かつ、場合によっては植民地同士でも)争うようになったことで各植民地の住民は武装の道を選び、これが民警団(Posse comitatus)となり、民兵(Militia)となり、最終的に軍事組織が結成されることになります。
最初の組織だった民兵部隊は一六三六年、北部のニューイングランドと呼ばれるマサチューセッツ植民地で行われた三個連隊の編制命令が最初となりました。
ただし、先にもご説明したように、北部マサチューセッツ植民地を構成する住民の多くは清教徒であり英国本土で同時期に発生する清教徒革命同様、王室に対して批判的な立場であったことは注目しておいてください。国民の武装の切っ先は、支配者たる王と国教会へ向けられていることと同義で、これは国家軍隊と大きく違っている点です。
さて、最後の植民地である最南部、ジョージア植民地の特許状が一七三三年に出て、十三植民地群は成立します。アメリカ西海岸の英国主導による植民地は十七世紀、ほぼ百年と十八世紀の四分の一以上を費やして、成立する形となったわけです。
さて、概ね植民地開発が百年も続けば、バージニア植民地以外の各植民地も開発は進みました。この間、戦争や、地主のいない土地を求めて欧州各国からの移民の規模は膨れ上がり、植民地の人口増加し続け、一七〇〇年に人口二五万人だった英国植民地はわずか六〇年足らずで六倍、一五〇万人の規模にまで達します。ボストンやフィラデルフィアといった都市は拡大を続ける一方でした。
拡大を続ければ産業その他もろもろの多くは発展します。教育方面で言えば例えば一六三六年にハーバード大学が、その後も一七〇一年にイエール大学、一七四一年にペンシルベニア大学が設立され、これらの大学は今でもコロニアル・カレッジ(植民地時代から続く伝統校)と呼ばれてもいます。これら東海岸の名門大学の学生達はそれぞれ現在で言うところの学生サークル、秘密結社を組織し以後アメリカの政財界・軍部などで大きな関係を見せるのですが、その話はまたいずれと致しましょう。
アメリカ建国直前の東海岸沿岸に広がる十三植民地です。
ただし植民地の成り立ちも住民構成も違いがあり、経済圏もまた違っていたことが後の南北戦争への遠因となります。
概ね三つの区域にわかれるのが上の図からでもわかります。
ニューイングランド
北からメイン、ニューハンプシャー、バーモント、マサチューセッツ、コネチカット)がニューイングランドと呼ばれています。この地域は農業ではなく商業、造船が盛んになります。前述したようにこの地にはカルバン派の影響をうけた清教徒が多く移民していました。
中部植民地
シャンプレン湖から大西洋に流れるハドソン川、南のデラウェア川の間にあるニューヨーク、ペンシルベニア、ニュージャージー、デラウェアは多くの国からの移民によってなりたっていました。ニューヨークは先にご説明したようにオランダ系、ペンシルベニアはクェーカー教徒だけではなく、ヨーロッパの諸宗教にも門戸を開いたことから、アーミッシュをはじめとする、ドイツ、あるいはスコットランドからの迫害を逃れて移民してきたものも多くいました。
南部植民地
バージニア、メリーランド、カロライナ(後にノース、サウスの二つにわかれます)、ジョージアの南部植民地は農作物が中心で栄えていました。初期植民地であるバージニアを中心として大規模農園が経営され、バージニアやメリーランドではタバコ、カロライナ、ジョージアでは米や染料であるインディゴの原料であるナンバンコマツナギなどが栽培され、その農園を維持するための黒人奴隷が多く流入することになります。
https://en.wikipedia.org/wiki/Thirteen_Colonies#/media/File:Thirteencolonies_politics_cropped.jpg (2023/1/6)
このようにして北米大陸の東海岸沿いに出来た十三個のイギリス植民地群は次第に世界規模で繰り広げられることになる英仏の戦いに大きく関わっていくことになります。
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