2012年3月25日日曜日

いろいろと考えさせる本。「日本陸軍と中国 」

日本陸軍と中国 (講談社選書メチエ)
日本陸軍と中国 (講談社選書メチエ)戸部 良一

講談社 1999-12-10
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日露戦争前から日本は中国(大陸)の状況に目をむけ、多数の軍人が海を渡ってあの手この手で現地情報を収集し始めます。彼らは日露戦争を勝利に導く一助となりましたが、その一方で清王朝の形骸化に伴い地方で発生した軍閥などが起きるにいたり、さらなる情報の収集に努めていき中国情勢のスペシャリスト「支那通」と呼ばれるにいたります。
混迷を深める中国の軍閥化と革命運動。その渦中にいた日本(陸軍)の軍人たちは、自らの行為が泥沼の戦争に日本と中国を導くことを理解していたのでしょうか。

日本が近代化につながるまでの青年期が、まぁ、司馬先生言うところの「坂の上の雲」。つまりは理想と(わかりやすいロシアという)障害を乗り越えるためにあったとすれば、その後の第二次世界大戦にいたるまでの、自国内は無論として中国、満州での泥沼のような展開は「理想から現実、そして挫折」への道でもあるわけですが、どうしてそれが発生したのか、支那通と呼ばれた軍人たちの動きにフォーカスを当てたのがこの本です。彼ら支那通は軍閥など中枢に入り込んで、時に外務省よりも詳しい情報を手に入れていました。が、そうであるが故に肝心なことを見誤ってしまうのです。

いやですね、読むとげんなりくるんですがね...。自分へのメモとして簡単にまとめます。

■日本と中国の複雑な立場を理解していなかった軍人たち
 当時の日本は明治維新後、日露戦争という国難を乗り越えた直後でした。彼らにしてみれば、瓦解しつつある清王朝と地方に勃興し始める軍閥化などの動きは、自分たちが参加できなかった幕末という動乱の憧れ、西洋にしてやられている東洋の自負などさまざまなものに覆われていました。彼らはそうと認識せずとも、自らのものではないのにもかかわらず自らの力に酔っていたし、その姿を見る中国の人々がどう思うかということに対して理解が足りていませんでした。
(当時の大陸浪人をはじめ、支那通軍人たちの一部にかなりの勘違いをしていたものがあり、大陸での狼藉騒ぎや放蕩三昧をみせていたのも、どこかしか中国を下に見ていたためといわざるをえませんね)

 そして「日本のために中国の近代化を促す」という支那通軍人らの第一義の目的はいつしか見失われ、いつしか「自分たちが選んだ情報提供者たち有力者の権利代弁者」となっていきます。そこにはそう仕向けた中国の軍閥指導者たちのしたたかさもあったわけですが、総じてナイーブ過ぎるといわざるをえません。
 また、日本の中央が彼ら支那通らの動きを完全にコントロールできなかったのも一因でした。専門家を育てることと、専門家を用いて判断を下すこととはまったく違うのです。中央の指示なく行われた張作霖爆殺事件に関与した自国の陸軍軍人すら裁けないのではどうしようもありません。その後の満州事変もそうですが。
 のちに日本陸軍の一部、石原莞爾ら(満州事変を起こした本人がそんなこといまさらなぁという実感はさておきとしても)参謀本部の一部が対中国戦略の抜本的見直し、すなわち中国統一化へのシンボルとなってしまった諸外国排斥運動...その中心にあったわかりやすい「敵」である日本への抗日運動に対応するため、日本の権益そのものを放棄することを提案しますが、もはやそんなことが出来るわけもなく、日本の既得権益はどっぷりと中国に存在していたのです。

■"支那通"軍人たちが持っていた幼稚的な革命へのロマンチシズム。
 結局のところ、支那通軍人たちの多くは当初、中国でおきつつある流れを革命と感じて、革命を援護することこそが自分たちの使命であると勘違いをしていました。彼らの多くはその後、中国が見せる排斥運動に自分たち日本人も含まれることを直接味わって変節していきます。決定的な事件のひとつが済南事件であり、この渦中に巻き込まれた支那通、佐々木 到一はその後大きく中国観を変更して、そして第三次南京事件に加わることになります。彼自ら、どのような戦いであったことをこの本では書き記していますので、ちょっと引用。
午後二時、敗残兵の掃蕩を終わって佐々木部隊は和平門から入城した。その後捕虜が続々と投降し数千に達したが、激昂した兵士は上官の制止も聞かず片っ端から殺戮した。戦友が流した血と激戦の辛苦を思うと、兵士ならずとも「皆やってしまえ」と言いたくなった。と佐々木は述べている。

次のくだりは佐々木自ら書いた本のくだりです。
実に余が若冠の明治四十四年以来満州問題解決を目標としてひそかに国民党に好意を表しつづけていた夢が、彼らの容共政策のために殊に蒋介石の英米依拠の政策によって日本との関係を絶って以来その夢が破れ、排日侮日のさなかにあってつぶさに不快をなめ...(中略) 
「今にみよ」
これは私憤では断じてない、信義を裏切る者には後日かならず天譴を下さねばならぬ、これが爾来予のかたき信念となったのである。(後略)

...ま、まぁ、なんていうか結局のところは他国の国の話なのにむやみやたらと肩入れして裏切られてうらみつらみが出た文章というか...やるせなさが漂いますよね。
彼、佐々木到一は支那通の中でも新世代で、それまで人間関係にべったりだった支那通軍人とは一線をかくして、中国大陸で起きる革命の動きをつかみ、その一方で中国に住む人々の国民性について(今でも通用するような)指摘をしているのですが、その指摘はblogにはちょっと書けそうもない汗;;内容なので割愛するとして、なおかつそうでありながら日本人や日本軍士官についても「誤れる優越感」を捨てよと論じているバランスのとれた人なのですが、そうであってもかようなことを書いてしまうわけです...。

■私見。地域専門家エリート教育は諸刃の剣。観察者ではなく援護者になってしまう前に、違う部署へローテーションさせるべき。
よく、日本人の留学者はいつしか留学先の代弁者となってしまう。という話があって、それは何も留学先という話だけではなくて、自分の好きなガジェットやハードに対してもそういうケースをよく見るんですよね。ま、自分がよく書く「信頼しても信用してもいいが信仰はするな」というわけですが。
この手のエリート教育、あるいはエリート部署をどう維持していくかってのは結構悩ましい問題ですよね。自分もこの手の本を読むたびにいろいろと思ってしまいます。

というわけで、内容的にあまりお勧めはしないものの考えさせるいい本ではありました。個人的な感想は、この本のあとがきに一言で集約されていたので、最後に引用します。この本の筆者が佐々木到一について研究報告した際、江藤淳氏が佐々木についてこう述べたそうです。佐々木を支那通軍人たちに変えてもさまざまな信仰するものに変えても通じる言葉ですが。

佐々木が中国に裏切られたというのは、中国が「他者」であるという認識に欠けていたからだ





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