2012年6月25日月曜日

戦国の軍隊: 現代軍事学から見た戦国大名の軍勢

戦国の軍隊: 現代軍事学から見た戦国大名の軍勢
戦国の軍隊: 現代軍事学から見た戦国大名の軍勢西股 総生

学研パブリッシング 2012-03-19
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さて、十年一昔といいますが、ちょうど十年前ぐらいですか、よく知られる戦国時代合戦の一つ、長篠の戦において織田信長の三段備えによる鉄砲隊による武田勝頼の騎馬軍団撃破というものの信憑性に?マークがついたのは。

・そもそも騎馬軍団と言えるものは存在していない。
・織田勢の鉄砲保有率は他国に比べても突出はしていなかった。(10%弱) それでも1000丁を軽々と超える数を戦場に持ち込んだのですが。
・武田勢は徳川・酒井勢らによる鳶ヶ巣山周辺の掌握による後方遮断の危険性を察知し、時間的猶予がないまま狭隘な場所での合戦を強いられることになった(これこそが信長勢らの特筆すべき点ですね)。織田・徳川勢は戦域でのイニシアティブを掌握して狭隘な設楽原で、丘陵の上に陣取ったこと。
・単純に土塁と馬防柵などの大規模野戦築城(とはいえ、戦国時代、この手の野戦築城は珍しくもないのがわかっていますが、信長は大規模だった)による。
・これに対して両翼に大きく開いた武田勢はどちらかの軍勢を突破できれば勝利。ただし、織田・徳川勢は固い野戦築城に篭もって(味方の壊乱を防ぎ)、相手に出血を強いることで士気を崩壊できる。事実武田勢壊乱後の追撃戦で多大な戦果をあげた。

というのが、大体の新評価ですね。
あの当時、2chの軍事板界隈でも時代劇などの戦国合戦シーンなどをとりあげて、一番戦国の実情にあった描写をしているのはクレヨンしんちゃんの劇場版だ。という話もありましたね、そういえば。

元々、三段備えとかは江戸時代の講談から端を発して、日本陸軍参謀本部あたりが(色々な理由から)でっちあげたようなところもあります。明治維新後の日本にとって国体を確立するのに、過去話でも美化し英雄化する必要があったせいかな、という気もしていますが。

今では、センゴクなどもあって新しい合戦の様子が描かれてもいますが、知らない間に戦国時代研究は新たな史料発掘などもあり、それまでの定説が色々と崩れていることがあります。

前ふりが長かったですが、この本はそういう今、変化しつつある戦国時代の実情に対するアプローチを知る方法として極めて興味深い内容が記述されていました。

自分も曖昧に思っていたことがこの本ではっきりとした形として示されていました。

1) 戦国時代の兵力内階級格差
2) 戦国時代末期にはもう形を見せていた諸兵科連合(コンバインド・アームズ)の萌芽

1)ですが、大体極々一般の人々が思い浮かぶ戦国時代というと、武士階級+農民からの徴兵であり、上杉勢は農民主体の兵であったために農閑期しか戦闘が出来なかった...という通説がここではあっさりと覆されます。上杉勢は以外と農繁期でも兵力移動を見せていたんですね。

 筆者の論ではこのような形となります。大名>家臣群>=傭兵=農民、となり、基本的には傭兵などが主体であり、没落した武士や土地を追われた農民などが母体となりこれらの規模は戦国時代にはかなりの規模になっていたということが知れてきます。まぁ、最底辺の派遣業みたいなもんですね。もともと武士の発端は中央集権時代における(軍事力による)統治能力のタガが緩んで、地方荘園に独自の武力をもつように至る...わけですから、まぁ、基本的にはチンピラなんですよ(あ、書いちゃった)。
なので、源平時代をやる夫を使って書いている「やる夫が鎌倉幕府の成立を見るそうです」で描かれる板東武士の生き様っていうか、価値観について、上の話を読んだ現代の若者(高校生だったかな?)曰く「まるでヤンキーの行動みたい」っていうのは、外れていないっていうか、もう、そのものずばりですよね。
面子を優先し、チーム(血縁関係ですが)の上下関係で時々は意に沿わないこともやんなきゃいけないし、ノリノリやることもある。もうほんと、やってることは大差ないです。

とはいえ、全員が全員武士でいられるはずもなく、没落し、くいっぱぐれて、傭兵暮らしというか、人材吸収のバッファーゾーンになったんでしょうねぇ>傭兵家業。
当時、家・血筋のために命をかけるというのはわりと明確ではなかったのもありますから、ドライだったでしょうし、だからこそ、100年もドンパチやれたというのもあるんですが。

2) 軍隊組織を十二分に生かすためには、一つの隊が諸兵科連合、すなわち、鑓・鉄砲・騎馬(侍)・小荷駄(輜重...補給兵)で構成されている必要があります。こうすることで一個の戦闘ユニットとしていかなるケースでも戦えるケースとなりますし、計算できる形となります。
 欲を言えば、全軍において一定の兵力単位による戦闘ユニットが構成されると一気に近代の軍隊組織となりますよね。兵力動員にたいして計算がつきますし、計算できる戦力となりますから。
 従来まで自分も疑問だったのですが、戦国大名とその配下の家臣たちは其々所領による規模で動員兵力に当然のごとく差が生じます。ある程度規模の家臣の配下なら諸兵科連合は構成できるが、では雑多な小規模な所領をまかされている武士たちの配下は十人、百人規模が精々でしょう。ではこれらでどうやって戦力として形成できるのか。

 この本では意外なことに、北条家の例をもってこの手の動員がいかなる差配で行われていたのかを解き明かされており、配下の武将らに事細かな武具の統一等の指示が示されている一方、兵力の供出という形であり指揮権は北条家のトップが握っていたことが示されています。
 つまり戦国末期の段階でもう諸兵科連合のメリットが認知され、かつ、配下の武将たちは自分たちの所領で維持している兵力(それは傭兵...すなわち雇い兵らが中心)を供出。大名は供出された兵力を編成して、武将たちに預ける。という行為が行われていた形となります。

 ...しかしまぁ、人類ってこと戦争になると凄い勢いで合理化が行われるんだな、というのが正直な感想です。大体、西洋で諸兵科連合のメリットが認知されたのも1600年代ど真ん中、テルシオとかマウリッツのRMA(軍事革命)による三兵戦術の導入が行われるわけですが、地球の反対側の日本でも同様に諸兵科連合によるメリットが認知されていたということですから。

この本では、豊臣秀吉による小田原攻めの実情も調べていますが、これについては自分も若干の保留状態です。おそらく秀吉は近畿地方の経済を織田家から継承・掌握していたための豊富な財力をもっていたのは確実ですし、当時に比べれば兵站業務をおろそかにしていなかったでしょう。
とはいえ、小田原攻めですべての兵站が満足できていたかといわれれば、それは無理だったかもしれません(それは現代の米軍でもありがちな話ですし)。なので、極々一つのエピソードをもとにすべてを決定づけられるわけでもない話かな、という気がしています。

織田家の強みとは、ベンチャービジネスばりに旧弊の仕組みでは外れた強烈な上昇志向の塊のような面々を束ねていたのですから、そりゃアチコチにひずみも出ます。織田信長の治世において反乱が年中行事のようだったのにもわけがあります。本能寺の変以後、身内で食い合う始末なのも頷けますし、その後秀吉が物騒な連中を朝鮮の役に連れてったのもそりゃ理由があることでしょう。100年続く戦乱でダブついた人材をどう落ち着けるかといえば新しい別天地に連れて行くしかないですからね。

(その一方、戦国後半でこういった日本武士が東南アジアなどでも傭兵で活躍するのですが、彼らも日本本国が鎖国していくとその数を減らしていくわけですよね。)

話はアチコチとびましたが、東国を中心とした戦国時代の実情に新しいスポットを浴びせたいい評論だと思います>「戦国の軍隊」






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