兵器と戦術の世界史 (中公文庫) | |
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20140317 色々誤字脱字が多いので修正しています。申し訳ありません。
"経験が正しい未来を約束するわけではない"
筆者は元l日本陸軍、自衛隊幹部(特科...砲兵出身)として長年勤めており、この本は彼が幹部学校向けにまとめた内容を書籍化したものです。
古代から近代にいたるまでの兵器と、そして戦術の変遷をまとめていますが、ローマ時代とかナポレオン戦争とかそこらへんはより詳しい書籍がありますので、そちらをあたったほうがいいかもしれませんね。
この本で一番興味深いのは、筆者が日本人であるため明治維新から日本が太平洋戦争に敗北するまで、世界の趨勢が砲火力と戦車に傾倒していったのに、一方の日本陸軍はどうして精神主義、白兵主義にとらわれていったのか、世界と対比して説明していることですか。
実のところ言うとこの本を読むまで、日本陸軍の白兵主義や度を超した精神主義はどこから来たのだろう。戊辰戦争では曲がりなりにも火力を重視していたのに。やはり日露戦争で戊辰戦争をかいくぐった重鎮たちが一線を去り、その後は延々と中国大陸で軍閥や国民党、あるいは共産党としか戦っておらず、火力戦のなんたるかを理解していなかったんだな。という程度の認識でしたが、この本読んでアゴが外れかけるほどの事実の指摘ががが。まぁ、著者が砲兵科出身ということもありますので視点はそれ相応に砲兵視点ですので、念のため。
戊辰戦争が始まる前夜、日本では至るところで近代化へのキャッチアップがスタートしており、それは軍事面でも変わらなかった。とはいえ幕府、各藩によって違いがあり、いち早く大砲火力と洋式軍隊への舵とりを始めた薩摩藩ば戊辰戦争において中核をなす形となる。
幕府の洋式部隊や長州、薩摩など各々の兵制に関してはレベルの違いがあれど散兵戦術などを取り入れ始めており、違いは装備品、つまり従来の小銃と旋条銃、砲との違い、あるいは指揮官の才能の優劣などごくごくわずかな面により勝敗が決することとなる。
(しかし、戊辰戦争全般を通してみると)衝突した軍勢は小規模であり、双方構築された陣地を突破するための砲火力に乏しいことは変わらなかった。
数少ない砲火力が有効だったとしても上野の彰義隊のように稚拙な戦いぶり故か、あるいは函館の戦いのように海上からの艦砲射撃など有効だった場合にかぎるという始末で、大砲の効果が低かったうえ、構築された陣地を抜くためには犠牲を問わず抜刀突撃しかないのは変わらなかった。互いに小銃を撃つだけで陣を抜くことは敵わなかったのである、という形となる。
(そりゃ火力が足りない軍勢が旺盛な戦闘意思を持続していたら抜刀突撃するわな、そりゃ。)
その後、創設間もない日本陸軍初の大規模戦闘である西南戦争は、先の戊辰戦争の繰り返しとなった。西郷側は兵力、火力ともに劣勢であり、戊辰戦争より大砲火力は減じていたし、小銃にしても旧式銃しか手に入らなかった。薩摩藩時代よりトータルの火力では劣っていた。
一方、日本陸軍側も事情はさほど変わらない。旧薩摩領から工場施設を奪い取ったものの生産は軌道にのっておらず、おまけに小銃、弾薬が混在している。編成直後で兵は弱兵ときていた。
西郷軍は結局砲火力が足りない状況で熊本城を抜けるわけがなく、結果的に熊本城を残置して日本陸軍との対決を繰り返すこととなった。双方火力に問題を抱え、その中で犠牲を顧みない抜刀突撃により攻撃を行い、その矢面にたった日本陸軍は火力でそれを防ぎきることは敵わず、結果的に旧会津藩士らによる警視抜刀隊を編成し対抗する形へ。
戦いそのものは田原坂の戦いなどで日露戦争の1/3の弾薬消費量を費やしたというものの、その弾薬は小銃によるものが大半で、日本陸軍側の山縣が指揮する作戦指導にしても運動戦ではなく何のひねりもない平押しによる消耗戦に持ち込み、日本陸軍が勝利するのだが、このことは結局のところ日本軍の悪癖、白兵主義へのより顕著な傾倒を示す最初の一歩となる。
この戦場においてもよく整えられた陣地に対してそれを粉砕する火力ないまま歩兵を突撃させるしかないことには戊辰戦争から変わりなく、その一方で日本陸軍は薩摩の抜刀突撃にしてやられたのが一因となった。
この経験はあとあとまで尾を引き、日清戦争では砲火力の支援があったものの、清国軍側にそれほど砲火力が充実していたわけでもなく、その有効性などを体感することはあれど身をもって知ることはなく、隠して30年余後、当時、西南戦争の戦闘に衝撃を受けた現場士官らが将官になった日露戦争が決定打となる。
西南戦争、そして日清戦争の経験で火力が重要だと踏まえたまでは良かった日本軍だが、その火力とはあくまで小銃、あるいは機銃レベルにとどまった。砲火力については軽量・小口径砲、弾は榴散弾(細かい弾をバラまくタイプ)を重視していた。砲火力で陣地を抜いた経験も少ない日本陸軍では砲火力の重要性はわかっていたが、あくまで野戦で敵歩兵陣を粉砕することを目的としてたのだった。
と、こ、ろ、が、このことは初の装備が充実したロシア軍相手に戦った日露戦争全般を通して砲火力が対して有効にならないことを意味していた。散兵戦術を踏まえた相手では榴散弾の効果は低く、軽量・小口径ではなお一層その効果は乏しくなった。
ついでにいえば良く構築された陣地では榴弾(火薬のつまったタイプの砲弾)が有効だったが、もっぱら作ったり輸入していたのは榴散弾が多く、榴弾にしたって不発が多かった。さらにいえば準備している砲弾も足りなかった。
戦い方も稚拙極まりなく、数度の戦いのあとロシア側は砲兵陣地を構築、間接照準でかつ発射速度も速かったのに対して、日本側は何もない場所に暴露展開・直接照準で砲撃していたため、砲兵同士の対砲砲撃戦で圧倒される羽目になる(大石橋の戦闘)。
なんですか、それ?という方に説明すると、大砲から直接照準して砲撃するのが直接照準。攻撃範囲は見通し距離以内なので、高台に設置するとかしていればまだ距離は稼げるが、それにしても限界がある。そうではなくて、目標の照準、修正を大砲位置でなく、それよりも前進した部隊が行って、電信など通信で知らせて砲撃するのが、間接照準。この方法なら、見通し距離以上、たとえば間に遮蔽物(森とか丘陵とか地形その他もろもろ)があっても、砲弾が届く範囲でなら攻撃できるということ。
これに地面を盛り土したりして、近距離に砲撃を受けても被害を軽減するのが砲兵陣地の役目。ここらへん日本はすっかり抜けていたため、ロシア軍にしてやられる始末になったというわけ。
また遼陽会戦ではロシア側のよく構築された陣地を砲火力で潰すこともかなわない始末だった。つまるところ、一門あたりの攻撃力が足りないから砲弾を多く撃ち込まざるをえず、ついでに不発弾も多く、なんとかするために多くを撃ち込むはめになるから砲弾が不足し、不足するために砲火力が限定して使用されない羽目なる...という四重の苦しみが生じていた(もっとも戦争後半、口径の大きい砲を導入するのだが焼け石に水)。
戦争前の段階で、9センチとか12センチなどのお話にならない砲を15センチに統一して装備していればまだしも貧乏国故かはたまた砲が巨大化することで部隊の運動性が落ちるのを嫌ったのか、小口径砲ばかりが併用され、それが弾薬の製造、供給に負担をかけるという始末。
筆者は15センチ榴弾砲に統一していれば...と嘆くのだけれど、まぁ、そこは...ねぇ。「坂の上の雲」で司馬遼太郎氏が指摘したようなことは、何も乃木さんにかぶされる問題ではなく、クリミア戦争なりを見ていれば要塞だろうが野戦だろうがナンだろうが防御陣地を突破するためには砲火力が必要、という観点が日本陸軍全体に欠けていたような気がするねー。
このことは旅順攻防戦でより一層明らかになる。日本側が持ち込んだ砲火力は、山砲186門、攻城砲194門という話だったがその中で最大のものは15センチ榴弾砲16門、12センチ榴弾砲28門とまぁお寒いかぎりで、他12センチカノン砲、15センチ・9センチ臼砲という...まぁ、正直言えば攻城戦やるには心もとない始末だった。ベトン(コンクリート)で構築された陣地に対して効果がまだあったのは15センチ榴弾砲で、足りない上に威力も少ないのでは旅順攻防戦であれだけ屍山血河つくるのも無理はない。ここでも問題だったのは日本の手にあった砲が信頼ならず、ついでに数も少なかったのだ。持ち込んだ二十八糎砲(28センチ榴弾砲)にしたって、6門(4門)とも言われており数が少ない。ついでに言えばもともと要塞砲として装備されていたので、砲弾は艦船向けであり地上目標に適していたものは少なかった。これまた不発弾も多く、撃ちこんだ不発榴弾がロシア軍兵士によって綺麗に並べられていた、というぐらいだからなんというか...。
旅順をめぐる戦いは本来なら火力で粉砕しつつ進めばよかったのだが、203高地をめぐる戦いでも軽量砲では役に立たず結果的に28センチ榴弾砲を投入して決着をつけている。前に陸自の中の人がいみじくも語っていたように、「乃木将軍だろうが誰だろうが、あの日本陸軍の編成では旅順は大損害を覚悟しないと突破できないんだよ」という意味が合点がいく話でもある。
その後も砲兵火力は門数不足と砲弾不足と威力不足と粗製乱造による不発弾とまぁ四重苦に苦しみ、黒溝台の戦い・奉天会戦とロシア兵の白兵戦・コサック騎兵に苦しみつつも、歩兵の運動戦と防御においては機関銃の有効性によって局面を打開していくことになった。砲兵も現場改良を重ね、対砲砲撃のために防循などを付けるなどしていたが、歩兵にしてみれば怯懦の現れとしかとらえられなかった。何しろ日本側の砲火力に決して屈せずロシア兵が突入してくるのだから、砲火力に頼らずとも精強な兵力があれば行けるのではないか?と思っても無理はない(観戦武官たちは決してそんなことは思っていなかったのだが)。
日露戦争後、日本陸軍はアテにならない砲火力に見切りをつけ白兵戦に傾倒する羽目になる。多額の金を注ぎこんだ砲火力よりも白兵を主体とする歩兵であれば訓練次第で精強になる。安価でかつ能力が高い...と考えたのも無理はなかった。経験が正しい結果を導くわけではないという証でもある。
日露戦争の大規模な再現となった第一次大戦については語るまでもなく、(司馬遼太郎氏はクリミア戦争などで乃木将軍が学ばなかったせいだ、というが、その一方でWW1の各国軍の将軍たちも日露戦争から学んでないとも特筆してもいいかもしれない。極東の戦闘経験は誰も真剣に読まなかったかもしれないのだが)、
1)よく構築された陣地に設置された機関銃などの弾幕射撃に歩兵による大規模攻撃は対抗しきれない。
2) 突破するためには砲火力が必要。だが、構築された陣地の突破を確実にするには周辺も含めた準備砲撃が不可欠。
3) ただし準備砲撃をすればするほど防御側に突破(予定)箇所への部隊終結の時間をを与えてしまう。
3) 少数の歩兵による浸透突破戦術は有効的だが、歩兵単独では突破しても展開する能力に欠ける。
4) よって装甲に守られ不整地を突破し機動力もある戦車が有効
5)とはいえ、戦車単独では機械的信頼性に欠け対砲兵、対戦車壕を突破できない。
というジレンマはどの国も抱えて解決の手段を見出せないまま(これは日露戦争も同様)、苛烈な総力戦と莫大な人的損耗の果てに収束したという欧州戦の衝撃は結果的に国内まではとどかず、相も変わらず火力に対する不信感は根強かった。
一方、ドイツはフランスの戦車にしてやられた経験がぬぐえず、戦車を装備し、馬の代わりに車両を用意し歩兵を随伴させ、失われた砲火力を航空兵力による近接支援でどうにかしようと考える。また、塹壕に拘束される戦いを嫌い、運動戦を求めるようになる。一方のフランスは日本と同程度に明後日の方向、(人的損耗に耐えられなかったという面もあるけど)より強固な陣地の確立が必要不可欠と舵をとってしまい、WW2劈頭にドイツにまんまとしてやられしていまうわけだが。
そのころの日本といえば、戦車に期待するとこ大だったようですが、1933年に編成した戦車連隊二個、34年には歩兵連隊1個・戦車大隊2個・砲兵大隊1個からなる(歩兵もトラックに乗って移動し、砲も車両で牽引する)機械化旅団(おおっ!)である「独立混成第一旅団」が編成されるものの、1937年の日中戦争劈頭に何もない平原においても歩兵を乗せたトラックに戦車が追随できなかったり、部隊は集中運用してこそがキモなのに分散して使って攻撃不足などガッカリ感ハンパなしで結果的に解隊。戦車は歩兵直協しか考えない羽目に。ああ、どうしてそこで...せっかく時代の先鞭つけて機械化したのににににに!(悶絶)
(大体、戦車が壊れやすいもんだという認識が欠けていたとしかいいようがないですが)
ついでに言えばこの当時、もうひとつの大問題が生じていて日露戦争に使用した三八式野砲の後継開発に失敗していたりする。
フランスのシュナイダー社が開発した九○式野砲が導入されるものの、過大な重量を疑問視した参謀本部が要らぬチャチャを要れ、蓋をあけてみれば弾道特性は三八式野砲と変わらない九五式野砲が開発されたというわけ。
欧州列強では第二次世界大戦初期でも運用する低弾道・高初速など対戦車砲にも転用可能な砲を運用していたのだが...。日本においては砲の技術レベルがそれほど高くなかった(求められていなければ技術レベルも上がる道理がないのだが)のも一因ではある。
蛇足で書けば現場は九○式野砲のほうを求めており、結果的に有効だたのはこちらのほうだった。というオマケつきで、その後、三式中戦車チヌにも搭載されるのは陸軍好きなら知っての通り。
かくして迎えたノモンハンの戦いでは砲兵、戦車、歩兵、三者とも手痛い羽目になったが不思議と砲兵、戦車は頼りなし、という意見がまかり通り歩兵により注力していくこととなる。相変わらず歩兵も甚大な損害を受けたのだが、砲撃に耐え拠点を守り抜き、かつ白兵突撃を敢行してそれ相応の戦果を得た、という判断だった。ただし、実際は戦域正面を砲兵火力が攻撃し、側面を機動力に優れた戦車で突進。後方の砲兵を攻撃するというソ連側戦術にいいようにしてやられたのも事実で、日本陸軍はこれを防ぐ手立てをもちえることはかなわず(ドイツの戦車活用で戦車はまだしも)砲兵の斜陽化に歯止めはかからなかった。
ここでも経験は正しく理解されることはなく、自分達のスタンスの裏付けと捉えられていたのがわかる。
...まぁ、日露戦争後、宇垣軍縮でコンパクトにまとまった砲火力も足りないまま、その後の大拡張でこれまたさらに力不足となったままで第二次世界大戦に突入するのですが...
結局、日本の白兵戦に対する異様な執着度は、それを打開するチャンスが数あれど、なぜかそれをスルーしてしまうというアイタタな展開が...もう。え、どうして? つまり簡単にいうと砲と弾薬が世界レベルに到達せず日本にそれだけの技術力が無かったからなんですよ(吐血)。
じゃなかったら小銃から大砲に至るまで日露戦争レベルでろくすっぼ進化しないなんてありえませんって...。なんていうかWW1~WW2まで、世界での趨勢とまったく乖離した日本陸軍のダメさ加減がこれでもかとわかるように...。
というわけで、「兵器と戦術の世界史」は日本陸上自衛隊幹部学校向けに書いた記事を編纂したものなので、日本陸軍がどうしてアれすぎたのか、世界の趨勢と対比できてよいです。ドイツ軍の砲兵軽視とかやっぱ防御には砲火力しかないのよ、とか痛いほどわかりました...。
まとめ。
・歴史的に、移動力・攻撃力(火力)・防御力のせめぎ合いの中で兵種が生まれ、そして消えていく。
・良く整備された陣地を突破するためには砲火力の支援と、歩兵・陣地の防御陣を突破しうる機動力が必要。すなわち戦車である。
・反対に防御側も良く整えられた陣地と砲火力があればしのぎ得る。ただし対戦車能力は必須だが。
朝鮮戦争の中国参戦による白兵突撃に対して国連軍が戦争後半、VTヒューズ+防御側歩兵を陣地に収納させ鉄の梅を降らせて粉砕したことからも分かるように、火力で圧倒できないかぎり防御側を突破することは難しい。
・航空兵力は砲火力の代替えに一部はなるものの全面的に置き換わることはできない。ミサイルも同様。
・現在、今に至るまで装甲騎兵に対して歩兵による長槍方陣陣形のように歩兵が戦車を攻勢で打ち破れる能力は獲得されていない(防御としては対戦車ミサイルがあるが携行性にかける)
さて、そういうことをひっくるめると元日本陸軍の堀栄三氏が語った言葉に集約されるのです。
「鉄量を破るものは突撃ではない。ただ一つ、敵の鉄量に勝る鉄量である」と。
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さて、本そのものは非常に勉強になりました。ただ、この他にも色々ヨーロッパ、あるいは戦争全般の流れを踏まえておくといいかもしれません。
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最後に日本の陸軍、もとい現在の陸上自衛隊が牽引砲とはいえ155mm(15.5センチ)榴弾砲を、開発元の英国、イタリア、ドイツの三カ国配備数と同じ422門という破格の配備を行っていたのは、確かに「防御側に砲火力があるかぎり...」の原則に則ってます。ただ機動力に欠けるので、火力戦闘車なんて開発していますがね...。
2018年に開発終了ってカンジだから配備数と配備スピード考えるとねぇ(ため息)。
いっそアメリカが配備してるM777 155mm榴弾砲(FH-70の重量7tオーバーに対してこちらその半分!の3tちょっと。UH-60で吊り上げ移動が可能というスバらしい軽量砲ですよ!)をライセンス生産してリプレースしたほうがいいんじゃね、とか思うんですがね...。どうも陸自って砲火力は今いちアメリカのアテにしてないななあ。空挺向けの120mm迫撃砲もフランス製だっけ...。
※Twitterでもつぶやいたのですが、その文章を元に加筆・修正しています。
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