2023年3月11日土曜日

合衆国海軍通史 私家概要 1-5 私掠船話

1.5. 私掠船(≠海賊)の時間だ!(Now, it's time for some privateer! (not piracy))


 私掠船とは何ぞや。と、簡単な始まりからお話しましょう。


 そもそも紀元前から存在する海賊行為に対して国家承認による合法化が行われだしたことで「私掠船」が誕生したのは革命戦争よりさらに遡った十三世紀中ごろの話です。

 一二四三年、イギリスのヘンリー三世の御代にまで遡ります。当時、スペインとフランスの間で対立していたヘンリー三世は「敵国を悩ませる(annoying the King’s enemies)」のために、自国商船の船長に対し、航海中特定の他国船、つまり、スペインやフランスの商船を攻撃してその船の積荷を奪ってもよいとする認可状を出し始めたのが私掠免許(Letter of Marque)の始まりとされており、この時には「捕獲物の半分を国王に上納することが求められた」そうです

 一二九五年には、ポルトガル船による略奪の被害を受けた船主が、被った損害を回復するためにポルトガル船を拿捕しその積荷を捕獲する許可をヘンリー三世の後を継いだエドワード一世に願いでます。この願いに答えて出されたのが「Letter of Marque and Reprisal」、私掠免許に付け加える形で「報復復仇 (reprisal)免状が発行されます。※2023/03/13ご指摘を受け、修正。

 国が大手を振るって外国財産に対しての収奪を許可するわけですから、わりと条件が厳しく、場合によっては捕獲物が私掠許可状に示された条件に則らずに略奪されたものであると認定された場合、捕獲された船や積荷は解放され、時には被害者に賠償金が支払われる場合もあったそうです。

 とはいえ、結局これらの免状が出るということは戦時、あるいは準戦時状態ですので、次第に「報復 (reprisal)」ではなく最初から「利益獲得」を目指しての商船襲撃が発生していくようになるわけです。

 かくして、私掠免状による利益獲得が目的となると話が色々と代わってきます。


 一六世紀のエリザベス女王時代となると、私掠船運用は大規模な「ビジネス」となっていき、当時対立していたスペインに対して、私掠船について「共同持株会社」が立ち上げら

れ、商人だけではなく国王、貴族、役人まで加わって国を上げての海賊行為が横行します。

 何しろスペイン船籍の船を襲って収奪した利益のうち一割を国に収めれば、あとは船員・出資者に分配すればよく、二〇〇隻以上の船が私掠船に従事したと書かれています。

 これによる収奪品による利益は当時のイギリス輸入額の十~十五パーセントに達したと書かれていますから、中々のものです。しかも免状交付もかなりルーズになり、国王からの、あるいは海事裁判所からではなく、海軍、あるいは海軍地方長官から発行される形となったり、場合によって出されずとも私掠行為が行われ、中立国船籍の船ですらお構いなしという無法状態になっていきます。

 さすがに見かねたエリザベス女王のあとを継いだジェームズ一世は海賊嫌いだったようでスペインとの和平成立もあって、この私掠免状を一切無効化し、腐敗する担当者を一掃します。そのせいでそれまで私掠行為もあってか強力だった海軍力の低下が著しくなるのですからままなりません。すくなくともイギリス本土近海での私掠船は姿を消したようですが、それは単に舞台が変わっただけ、とも言えました。


 私掠船行為に味を占めた者達の多くはカリブ海へとその活動の場を移します。欧州列強各国の利権渦巻くカリブ海で現地の領主たちは自らの権限でこの者達を雇い入れ、対立する国家の商船を襲わせるようになりますが、基本こうなると私掠船というより海賊船であり、諸外国から討伐対象となっていき、海賊行為に手を染めた船乗りたちは斃されるか、はたまたアフリカあるいはインド方面へと流れていくことになります。これがだいたい一七世紀末から一八世紀頭の話となります。


 さて話は戻って、海賊が表舞台から消え去り始めた十七世紀末、新たにフランスが私掠船免状を発行し出します。当時、フランスは、プファルツ継承戦争 (一六八九~九七) とスペイン継承戦争(一七〇二~一三)と、立て続けにイギリスと対立しており、海上交通路を掌握するために私掠免状を大量に発行します。海軍の規模、艦艇数で劣勢だったフランス側は海戦に寄らずして武装商船による商船活動を制限させることでイギリスを屈服させようとしたわけです。

 イギリスも大規模な損害を受けたイギリスは一時、大西洋での三角貿易すらままなくなり、彼らも対抗して私掠免状を発行していくのですが、大きな変化がそこにはありました。それは国へ収める取り分の変化で、最初期の私掠船の取り分が半分、そしてのちに一割と変化していくのですが、この時期、国に対して納めなくてもよいという形になります。

 合わせて、私掠船行為の前に事前に行う保証金の支払いと、その行動を規制する広範な規則への同意が求められる一方、私掠行為によって得た収奪金及び身代金の分配方法が明確化されます。

 国家が目的とするのは財政のためではなく、敵対国に対しての海上交通路の阻害が目的であると明示的に変化していったと見なせるわけで――歴史的に見ると、これが海上交通路を巡る「通商破壊(commerce raiding)」行為の始まり、とも言えます。


 さて、私掠船行為の歴史についてお話したところで話をアメリカへと戻しましょう。


 私掠船の活動は、一七七五年の初期からすでに始まっていました。各植民地では私掠船の許可を早々と出して活動を行っていたのですが、大陸会議として正式にイギリス船に対する私掠船許可を出したのが一七七六年三月の出来事です。

 とはいえ無制限ではなく、ある程度の統制も必要でしたので、先に語ったように私掠船の船主は、規則のもとで適切な行動をとることを保証するために金銭的な保証をしなければなりませんでした。

 一説によるとアメリカ革命戦争の間、約一七〇〇通の私掠免状が発行されており、八〇〇隻近くが私掠船として用いられ、約六〇〇隻のイギリス船を拿捕または破壊したとされています


 それだけ私掠船の働きが大きかったと言えば、大陸海軍と私掠船の規模について、「A History of American Privateers」にも書かれています


 アメリカの私掠船によるイギリス海運への被害総額は、戦争終結までに約1800万ドル、現在のドル換算で3億200万ドル強と推定されています。

 革命戦争においては大陸海軍の規模よりも私掠船の規模が数倍で大きかったことがわかります。

 私掠船はアメリカ沿岸部のみならず、大西洋、そしてイギリス本島近海などでも頻繁に行われていました。



当時の一般的な私掠船、16門の大砲を備えた〈ラトルスネーク〉号の模型写真です。

三本マストで、一列の砲列を八門、甲板に並んでいるのがわかります。

NH 84105 RATTLESNAKE Colonial 16 Gun Privateer, 1781

https://www.history.navy.mil/content/history/nhhc/our-collections/photography/numerical-list-of-images/nhhc-series/nh-series/NH-84000/NH-84105.html 2023/01/18



 さて、この私掠船、次第に世界的にその運用が白眼視されて、活動は低調なものとなっていきます。理由は言うまでもなく付随被害の大きさからでした。何しろ、私掠船活動には当該国のみならず中立を宣言してる国の船舶すら巻き込まれること大だったわけで、だんだん無視できないものとなっており、最終的には一八五六年のパリ宣言によって私掠船活動は違法であるという認識が決定されます


 ①私掠行為は現在も、将来も禁止される (is and remainsabolished)。

 ②中立国船は、戦時禁制品を除く敵国の物資を扱える。

 ③中立国の物資は、戦時禁制品を除いて敵国船によって押収されない。

 ④ 海上封鎖は、それが拘束力を持つためには、実効を伴わねばならない。即ち、敵国沿岸への接近を実際に防ぐに足る十分な戦力によって維持されねばならない。


 これらが取り決められて、概ね諸外国も同意、調印に至るのですが、条件があり、調印していない国に対してはこの宣言は適用されないものとされています。

 ちなみにこの後、一七八八年に制定されたアメリカ合衆国憲法第一条第八節第十一項において議会が決定できるものとして「戦争を宣言し、船舶捕獲免許状を授与し、陸上および海上における捕獲に関する規則を設ける権限」があるとしていますが、パリ宣言にアメリカ合衆国は調印していません。

 このため、二〇二二年のウクライナ戦争に伴ってアメリカがロシア船籍船舶に対して私掠免状を出して差し押さえという下院議員の法案提出があったとニュースになりましたが、これが理由の一つとなりました

 その後の話は聞いていないので、法案が取り上げられることがなかったようだと思われますが、意外と私掠船という言葉が現代にも残っていることに驚きます。


 このように大陸海軍の設立から私掠船についてお話させていただきましたが、話は一度ここで終わらせていただき、改めて時代を少し遡り、一七七六年のナッソー襲撃以降の革命戦争の経緯について、お話しましよう。


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