2023年3月18日土曜日

合衆国海軍通史 私家概要 1.6.アメリカ革命戦争(一七七五年~一八八三年)その二。中盤戦。

 1.6.アメリカ革命戦争(一七七五年~一八八三年)その二。中盤戦。

 新世界を革命する力を。

 一七七六年の春以降の革命戦争を要約しつつお話していきましょう。


 一七七六年、この時期の大陸会議・十三植民地群の立場は厳しいものでした。

 大陸会議はボストンの包囲を行いつつ、カナダ方面のイギリス軍勢力を排除しようと考えていたのですが、カナダ侵攻作戦、そしてシャンプレーン湖を巡る一連の戦い、その何れもに敗北した植民地群側は思ったような戦果を上げられなかった為です。

 先にも書いたボストンを巡るバンカーヒルの戦いのあと、イギリスは地形的に防御が難しいボストンの放棄を決定。

 次なる戦いは一七七六年七月から翌年一月まで続くニューヨーク・ニュージャージー方面戦闘(キャンペーン)と呼ばれる一連の戦いとなりました。


 一七七六年三月にボストンを海路、撤退したイギリス軍は現在のカナダ領ハリファックスで部隊の建て直しと兵力補充を行い、合わせてドイツ人傭兵も加えて、七月三日にニューヨークへ上陸を行おうとします。

 もともとニューネーデルランドとも呼ばれていた現在のニューヨークは、どちらかというとイギリス支持派が多い土地柄でもあり、イギリス側に本国からの増援をうけやすく、防御に容易く海上からもアクセスしやすいニューヨークに上陸・占領して、拠点とすることでこの戦いを有利に勧めようしようと考えていたわけです。

 何よりニューヨークの位置は十三植民地群にしてみれば北部と中央の丁度クサビの位置にあるわけで、喉元に突き刺さった刃のような形になったわけです。

 優勢なイギリス王立海軍艦隊の支援もあり、上陸したイギリス軍に対して迎撃したワシントンの軍勢は敗北し、貴重な兵力を失い撤退せざるをえませんでした。

 ニューヨークは先にも書いたように元々イギリス支持派の多かったため、この地域の住人達はイギリス軍を歓迎したと書かれています。

 以後、ニューヨークは革命戦争終結までイギリスの拠点として占領されつづけることになるのでした。


 ワシントン、そして大陸会議にとってもこの時期は苦しい戦いが続きます。


 無理もありません。この時期の民兵はあくまで期間限定の雇い兵同然でしたので、折角の訓練を重ねても任期が戻れば居住地へと戻ることを選択する者が多いため「軍隊」として運用するには難があったのは事実でした。民兵を維持するための予算も、大陸会議には乏しく、必然参加植民地からの提供を受けねばなりませんでしたし、当然滞りがちでした――これは革命戦争を通じて言えることでしたが。

 大陸会議にも厭戦気分が広まる中、劣勢の立場が続くジョージ・ワシントンは配下の部隊の兵士、つまり民兵たちが所定の活動期間を過ぎて故郷に戻るもの、あるいは無許可離脱、つまり脱走していく者も多い自らの軍勢の中で、指揮官である自身に批判が高まることを自覚したためか、まず、小さくとも軍事的勝利という成果を欲することになります。

 ワシントンは限定的な反撃を選択。冬のデラウェア川を部隊を渡河させることに成功させるとイギリス軍占領地であるトレントンを襲撃し、現地守備にあたっていたドイツ人傭兵部隊を撃破・捕虜とするだけでなく欲してやまない軍需物資、武器弾薬の獲得に成功し、戦線を何とか押し上げることにも成功します(トレントンの戦い)。

 軍兵力で見れば大陸軍側二四〇〇、イギリス軍(ドイツ人傭兵部隊)一四〇〇の衝突で双方の戦死者は一〇人を超えない、ある意味小競り合いのレベルでしたが、勝利であることにはちがいありませんでした。なにより司令官であるワシントンの威厳が少なからずとはいえ保たれたことも重要です。

 これにより大陸会議の拠点でもあるフィラデルフィア前面から戦線を大きく北へと動かすことに成功。ワシントンは貴重な時間を稼ぐことに成功します。

革命戦争序盤のニューヨーク・ニュージャージー方面の戦いです。ロングアイランドとニューヨークを失ったワシントン軍は大きく迂回して南西のペンシルベニアまで撤退しますが、その後、一時的な反抗作戦であるトレントンの戦いで自ら指揮して冬のデラウェア川を渡りイギリス軍を破ると、数度のイギリス軍側の反撃を退け、ニュージャージーまで戦線を押し上げることに成功します。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:NY-NJ-retreat-1776.svg (2023/01/30)


 時間は些か遡り、ニューヨークを失陥した一七七六年の七月、フィラデルフィアの大陸会議は苦しい状況ではありましたが、ある種の高揚感と共犯意識が横溢していたのかもしれません。


 この年の七月四日、大陸会議は一か月前より始まった独立宣言起草のための検討をようやく終えて、独立宣言を行います。ここに十三植民地群はイギリスからの独立を宣言。

 それぞれの植民地は、各々の自治政府・議会・憲法・軍を持つ邦(State)であるとし、連合国家としての、アメリカ連合諸邦(United State of America)が成立します。

 合衆国じゃないの? と思われる向きもありますが、まだこの時、合衆国憲法は制定されていませんので、ここはアメリカ連合諸邦と呼ぶのが良いでしょう。

 昨今のアメリカ史に記述ではStateを『州』として統一して訳している場合も多いのですが、従来の日本国内のアメリカ史では、植民地⇒邦(State)⇒州と変化を区別しているものが多いこと、あくまで合衆国憲法と連邦制に移行する前であることなどを踏まえて、ここではアメリカ連合諸邦と区別して記述させていただきます。


 さて、あまり知られてはいないことですが、実は独立宣言に至るまで十三植民地群の中でも色々と思惑がありました。実はレキシントン・コンコードの戦い後でも、イギリスとの和解、妥協が可能であると考えていた植民地の代表らも多く、筆頭はペンシルベニア代表のジョン・ディキンソン(John Dickinson)らで、逆に独立を求めるジョン・アダムスらは少数派だったようです。

 後世、アメリカ建国に至るまで、いささか虚飾と幻想に満ちた物語が普遍的でもありますが、アメリカ史を読むと、大陸会議の設立時においてもイギリスからの『独立』を考えている一派は少数派であり、総じて『権利要求』的な側面が強かったことは否めない事実だと考えます。

 そのためか、ディキンソンらは後にイギリスのジョージ三世に対して「オリーヴの枝の請願」という名の積極的な和平、国王による調停を求めた文章をまとめ、大陸会議の承認を得て七月にイギリスへと送付します。

 もっとも、ジョン・アダムスはこの請願に意味はないだろうという文章を残しており、大陸会議とてあまり一枚板でなかったことを示しているかもしれません。

 ジョン・アダムズの読み通り、この嘆願書はイギリスに受け入れられることはありませんでした。しかもそのその反応は、一七七五年八月にイギリスのジョージ三世が発布した「反乱と扇動を鎮圧するための布告(Proclamation of Rebellion)」で答えられる形となります。

 続いて一〇月には反乱鎮圧のために「外国の友好的な援助の申し出」を受けるとイギリスが発表したことで、独立戦争にドイツ人傭兵も派遣されることになったわけです。これが先にご説明したトレントンの戦いでドイツ人傭兵が戦いに加わった理由となります。


 イギリス側はあくまでアメリカ大陸での一連の動きを「反乱」であるとしたことは間違いなく、このためにそれまで本国との条件闘争的意味合いが大きかった大陸会議の空気が少数派であったはずの『独立』へと傾きだすのはこの時期からの模様です。

 ちょうどこの頃、英国から渡ってきた思想家トマス・ペイン(Thomas Paine)が一七七六年一月に「常識(Common Sense)」という薄い本を発刊したのも原因の一つだとされています。

 この本には世襲君主を否定し民主共和制が重要であると述べられており、この内容は十三植民地の人々に受け入れられ、確固たる潮流となっていきます。

 当時の植民地群の人口二五〇万に対して、五〇万が売れたといいますから、今でいうベストセラーになったわけです。

 かくして大陸議会のみならず各植民地の人々の間でも独立への気運が高まります。

 とはいえ、まだまだ独立が現実性をもっていたのか、と言われると微妙な点もありました。


 一つには大陸会議の法的位置づけも問題でした。

 もともと十三植民地からの代表(それも植民地の規模などもありますが、複数人であることもありました)による協議とされたものの、一七七六年のこの時に至るも権限も何もかも曖昧でした。

 そのせいもあってか、会議に出席していた代表メンバーは必要であれば自分たちの出身植民地の自治政府へと働きかけ、必要であれば出身植民地政府すら入れ替えようと活動していた者もいたほどです……これは何も権力ほしさ、というわけではなくイギリスから派遣された総督が選んだ政府要員だったため大陸会議への関与に熱心だった為、というケースもあり、一概にはいえません。

 ジョン・アダムズら独立派は五月から活動しだすと各植民地においてイギリスへの忠誠を放棄するように求め、各植民地への説得などに時間を要し、七月になって発表した。というのが独立宣言までに至る経緯のようです。

 第二回大陸会議で、後に第三代大統領となるトーマス・ジェファーソン(Thomas Jefferson)を長とする五人が、各植民地が独立を選ぶか否かの採択のための文書を期することが決定し、これが後にアメリカ独立宣言と呼ばれる文章となりました。


 ――ちなみに独立宣言そのものも反対する大陸会議内でも多く、ジョン・ディキンソンのように投票に出席しないことで意思表示を示したものもいます。

 後の世で言われるような大陸会議における「全会一致の独立宣言」とはこのように幾分ファンタジーと生々しい勢力争いの果ての出来事でもあったわけです。

 それでも彼らは、この独立が道半ばで頓挫した場合、自分たちが処されることを覚悟しつつも署名したわけですから、その覚悟は並々ならぬものがあったのは事実です。


 さて、話を冒頭に戻して何故にこれらの戦いが「革命」と呼ばれるのか。アメリカ側から見ることで見えてきます。彼らにとって英国の代表たる国王とそれに従う議会を否定するのみならず、植民地の中で「王」を立てることはありませんでした。


 独立宣言についてはアメリカンセンターに日本語訳が記載されていますので興味のある方はご一読ください(「独立宣言(1776 年)」アメリカンセンター 2023/1/17 確認 https://americancenterjapan.com/aboutusa/translations/2547/)。


 ……英国では清教徒革命から続く王政復古、そして名誉革命により議会が王を廃絶し、オランダ出身のウィリアム二世を呼び寄せるなどの展開を示す一方で、十三植民地群はまず王の支配そのものからの独立を目指すことになりました。

 これらは後のフランス革命同様、王権神授説から続く王権の否定でもあったわけで、まさしく「革命」であったわけです。

 無論、先にも触れた通り、これがどこまで最初から最後まで意図された「革命」運動であったのか、と言われると些か懐疑的にもなります。これは当のアメリカ人からも指摘があったりすることは確かです。

 それでもなお、単純にイギリス本国からの植民地支配を願う独立運動であると、この戦いの意義を小さくしてしまうことはないと思われます。彼らは戦いの最中にまさしく王権に寄らない、共和政体(民主主義、ではないことに注意してください)を求めて戦いを継続することを選んだわけです。

 独立への動きはさらに加速をしつづけます。

 苦しい戦いが続く中、大陸会議は一六か月も協議を続けて一九七七年一一月に「連合および永遠の連合規約(Articles of Confederation and Perpetual Union)」を採択するのですが、いわば建国の意志統一に対してすべての邦が賛同することを求めたために、この締結に数年を費やすことになります。なんとすべての植民地が賛同したのはこれより後、一七八一年三月で、三年余を費やすことになるのでした。

 これもまた無理もないことでした。

 元々、イギリスに対する統治の反発から発生したにもかかわらず、独立するにあたって統一政権を打ち立てるということに、各々の邦の中でも温度差がありました。西部地域の未開拓地の取扱いにも問題があったことは事実です。

 それでも一七八一年三月にこの賛同をもって初めて「アメリカ合衆国」が成立するのですが、さらにその後、大陸会議から連合会議と名を変え、さらに合衆国憲法を制定するまでにもまだ紆余曲折が生じることになります。この話は最後に語ることとして、さらに厄介な問題もありました。

 この時期でも、いえ、革命戦争全般において、植民地群において民衆すべてが独立支持派であったのか。と言うとそうではなかったことに注目すべきでしょう。

 大きくわけてアメリカ植民地の中でも独立派、中立派、王党派(トーリー、あるいはロイヤリストと呼ばれていました)に分かれていました(しかも、後にご説明しますが、独立派の中でも連邦派とそうでない派にも分かれています)。王党派は概ね当時の十三邦の中でも二~三割ほどだったと伝えられています。

 この対立は革命戦争中期から後半にかけての戦いで大きな問題となっていきます。


 またもう一つ付け加える点もあります。実は当時から黒人奴隷の取扱いは焦点の一つでした。革命戦争前後、バージニアのイギリス総督はイギリスに組する黒人奴隷を解放するという布告を出して、これも衝突の争点となっていました。

 皮肉な一件としては事実、のちにイギリス軍に襲われたジョージ・ワシントンの農園でもこの布告にしたがって黒人奴隷がイギリス側についた話も残されています。

 トーマス・ジェファーソン(Thomas Jefferson)が記した独立宣言にも、黒人貿易にまつわる記述があったそうですが、十三植民地群の南部、南北カロライナなどの問題を踏まえて記述は削除された、という記述があります

 しかし、そうはいってもジェファーソン自身、バージニア植民地の自分の農園では黒人奴隷を使役していましたし、彼の言う黒人解放とはつまるところ後の市民権、公民権の付与という形ではなく、いっそアフリカへ送り返してしまうという思想でもあったようです(これは後に変容したとの指摘もあります)。しかも妻の異母姉妹・黒人の血が流れている奴隷のサリー・ヘミングスと長きにわたって愛人関係もあり、昨今、DNA鑑定で少なからずジェファーソンとサリーの嫡子がいたという事実が確認もされており、ここのところは色々陰影がある人物、とも言えます。

 実のところを言えば、ワシントンしかり、ジェファーソンしかり、中部・南部の各植民地の有力者たちは黒人奴隷がいなければ農園運営も成り立たない側面も確かにあり、イギリス側の黒人奴隷解放の動きに抵抗して大陸会議に加わった、という面も否定できない事実と言え、その点でも非常に複雑なものを感じさせます。

 その後、二五〇年ほど経て、BLM運動で色々像が引き倒される事になるとは歴史の皮肉というか……本筋ではないのでここまでにしますが、そういった色々と建国の時にある欺瞞というか、内に抱える問題は後に国を分断する戦いへの導火線となるのですが、この話は改めてと致しましょう。


 さて、このような独立宣言のあと戦況がどうなったか。

 革命戦争におけるアメリカ大陸での戦域は三つに分かれていました。

 カナダと国境を接する北部方面、ニューヨークからフィラデルフィア中心の中部方面、カロライナなどの南部方面です。

 このうち、一七七七年、特にその後半は北部及び中部で大きな動きがありました。


 まず中部地方では、九月にイギリス軍はまさしくお手本のような海上機動によってアメリカ連合邦国側の首都とも言えるフィラデルフィアへ攻め込むために、チェサピーク湾深部、エルク河河口付近に苦労しつつも上陸に成功します。

 フィラデルフィアまで五〇マイルほどの距離で、首都前面への着上陸といった形でした。ワシントンの軍勢はただちに上陸したイギリス軍に対して戦端を開きます。

 双方とも軍勢は一万五千前後。ほぼ同数の戦いだったのですが、ワシントン軍側が稚拙な戦いに終始してしまい、敗北してしまいます(ブランディワインの戦い)。


 この戦いの結果を受けて大陸会議はフィラデルフィアを離れ、ペンシルベニアのヨークへと移転することを決定し、イギリス軍は無血でフィラデルフィアを占領することに成功するのでした。とはいえ首都放棄とは中々に手痛いダメージと思いきや、そもそも『緩やかな』同盟関係でもある大陸会議の移転は、致命的なものにはならなかったのも実情です。

 通常、国家対国家の戦いであれば敵首都失陥の恐れがあれば和平なりの条件闘争が出来るのがそれまでの流れでしたが、大陸会議側は継戦を選択しましたし、この点、イギリス側の立場に立ってしてみれば対ゲリラ戦闘のような国内治安戦なわけで、『後背地』がある敵勢力を分断する必要があったのも事実でした。

 しかも敵対する勢力の拠点に対して収奪行為などをすれば地域民衆を敵に回すわけで、それほど強圧的な手段を取れないために、逆説的に敵対勢力の被害が少ないというジレンマもあったのではないでしょうか。


 続いて北部方面で大きな動きが発生します。


 一〇月、イギリス軍の策動が始まりました。北米カナダ方面の軍勢が南下を開始したのです。シャンプレーン湖、そして五大湖を迂回して西方から東方へと向かう二手の軍勢が進撃を開始しました。目的は植民先にも述べたシャンプレーン湖からハドソン川を下ってイギリス側の拠点となっているニューヨークまでイギリス軍へと打通することにありました。

 これが成功すれば連合諸邦は勢力的に分断されることになります。しかも成功すれば、大陸会議の主な思想面での牽引役でもあるニューイングランド方面の植民地が切り離されるわけで、大陸会議としては何とてもこれを防ぐ必要がありました。

 イギリス軍の北部方面を担当していたジョン・バーゴイン(John Burgoyne)将軍率いるカナダ方面イギリス軍の本隊は、緒戦でアメリカ側が奪ったタイコンデロガ砦を奪還。

 要衝のタイコンデロガ砦も簡単に失陥した形となった大陸軍側でしたが、兵力をかき集める一方、遠くポーランドから駆けつけた義勇兵軍人、タデウシュ・コシチュシュコ(Andrzej Tadeusz Bonawentura Kościuszko)の巧みな差配によって、交通路を塞ぐことに成功しイギリス軍進撃の遅滞に成功します。

 それでも南下しようとしたところ、北部方面軍側のみならずニューヨークの軍勢も(フィラデルフィア方面に進撃している真っ最中で)連携も悪く、サラトガの戦いでホレイショ・ゲイツ(Horatio Gates)将軍率いるアメリカ大陸軍部隊に敗れることになります。


サラトガの戦いに至る地図です。

https://en.wikipedia.org/wiki/File:Burgoyne%27s_March_on_Albany,_1777.svg (2023/03/09)

サラトガの戦い以後、降伏することになったバーゴイン将軍とそれを受け入れるゲイツ将軍の絵画です。この戦いは北部方面におけるアメリカ連合諸邦側の優位を確立したのですが、それだけではない、大きな転換点を迎えるきっかけともなりました。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Surrender_of_General_Burgoyne.jpg (2023/2/20)


 一方の中部方面ではワシンシン将軍が占領されたフィラデルフィア郊外の渓谷、バレーフォージに陣を構え、厳しい冬に耐えながらも軍勢を再訓練し、統制を取り戻そうとしていました。

 ここで活躍したのはワシントンを支える義勇兵、プロイセン出身の軍人、フリードリッヒ・ヴィルヘルム・フォン・シュトイベン(Friedrich Wilhelm von Steuben)でした。

 彼の手によって統制と軍隊行動を叩きこまれた民兵はこの戦いの後半にその働きを示すことになります。

 また、先のフィラデルフィアを巡る戦いから、フランスからやってきた貴族、ラファイエットこと、ラファイエット侯爵マリー=ジョセフ・ポール・イヴ・ロシュ・ジルベール・デュ・モティエ(Marie-Joseph Paul Yves Roch Gilbert Du Motier, Marquis De La Fayette)もワシントンの幕下に加わっており、アメリカ革命戦争のワシントン軍は国際色豊かな軍勢でもありました。

 ちなみに先程お話したコシチュシュコも後にワシントンの軍勢に加わっています。彼らの功績を称えて、もう一人――これは後程語らせていただきますが――四人の軍人を顕彰するべく、ワシントンDC、ホワイトハウスの近くにあるラファイエット公園に銅像が建てられているのです。


シュトイベンによる訓練を描いた絵です。プロイセン出身らしい規則と規律に厳しかった彼の手によって大陸軍は精強さと規律を獲得することになります。

https://en.wikipedia.org/wiki/American_Revolutionary_War#/media/File:Baron_Steuben_drilling_troops_at_Valley_Forge_by_E_A_Abbey.png (2023/03/09)


 首都ともいえたフィラデルフィアを失陥するなどの敗北もありましたが、サラトガの戦いでの勝利はアメリカ側にとってひとつの転機をもたらすことになります。


 ――そう、独立宣言を行ったアメリカ連合諸邦とフランスとの間に同盟が結ばれるきっかけともなったのです。


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