2006年3月18日土曜日

つぶやき。

本業多忙中です。とほほ。更新もままなりません。


とはいえ、出張中の車中のラジオで気になったニュースがあり、よく巡回するサイトでも取り上げられたのでその記録として。




1999年に起きた未成年による母子惨殺事件の最高裁判決に伴う弁論が3月14日に行われる予定だった。
ニュースを見ている方はよくご存知かもしれないが、最高裁での弁論とは異例であり、
幾度かのケースでは高裁判決が覆されているという(つまり、高裁までの判決は無期懲役であり、覆されるとすれば死刑?の可能性が高い)。
ところが、この弁論に弁護士は欠席。結果的に延期となった。怒りに満ちた被害者遺族の声が印象的だった。



つい先日、車中にて聞いたラジオではこの事件の問題点についてゲストに招かれた弁護士のコメントつきで述べられていた。



  • 弁論欠席理由は、極めて重大な案件でなければ認められない。欠席した弁護士は日弁連での研修リハーサルを理由に欠席としたが、
    これは重大な案件とは言いづらいし説得できない。

  • 弁護士がこのようなことを行う背景に、
    (おそらくは判決が死刑判決を下すであろう)最高裁裁判官の任期切れ(今年度をもって任期満了)を狙ってのものと思われる。
    当初は延期日時を6月と申請していた。それが認められないのでこのような方法をとったものと思われる。

  • もし、上告中の案件を担当した裁判官が任期満了に伴い交代するようなケースがあれば、おそらく最高裁での結審は、
    あと数年確実に伸びるだろう。

  • 無論弁護士はどのような犯罪を犯したものであれ、その弁護をせねばならない立場にあるとはいえ、
    このような方法は国民に対する信用失墜を招く行為であり、独立性を保つ弁護士に対する圧力が高まる可能性がある。


ついでに言えばソースは報道ステーションではあるが、地裁、高裁ともに無期懲役とした被告人の判断理由として「更正の道がある」
とのことだったが、当の被告人が友人に当てた手紙にはなんら反省の意思はなく、犯罪を正当化しているふしがある。



無論、突然の悪意により愛する妻子を奪われ、その後も長期にわたる裁判と報道被害にあわれているご遺族の気持ちを想像することはできない。
だか、弁論延期のために欠席した弁護士に対する怒りは当然のものだ。


彼の弁護を担当する弁護士(死刑反対派だというが、この件はほっておく)も大変とはいうが、
このような手法は短期的には良くても長期的には決して利益にならない。

かの弁護士は、自らの職業としての一面の要求と、思想的立場に基づき、欠席という手法をとったのであれば、個人的感情で言わせてもらえれば
「醜し」といわざるをえないのだが。


職業としての要求と、道義的、倫理的他正しさが相反してしまう立場におかれたとき、人はどのような態度をとればいいのだろうか。
そこには自らを律する規範が必要になるのだろう。ということで、メモとして。



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