http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2:Sekigahara.png
戦場はるか東になぜ西軍の毛利秀元、吉川広家、安国寺、さらにその東に長宗我部がいるんだろう? 万に近い兵力である。元々兵力に乏しい東軍に対して(誰が離反するか物騒すぎるとはいえ)兵力をまとめてもおかしくはないはず。
そういう疑問について、最近blogを読む一方で驚いた話しがあるのでメモとして。
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『戦国の城:美濃松尾山城』中井均(歴史群像No.105)を読んで 「秀元様、なんか関ヶ原で合戦になったみたいですが」「は? なんで? 大垣は?」
http://drupal.cre.jp/node/3361
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銅大さんのblogで読んで
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を読む。
これを読んで戦国末期武将たちのとんでもなさがわからないだろうか。
石田三成がひいた大阪-京都-関が原-南宮山-大垣までの多重のライン。その戦場はあくまで関が原の東方にある大垣城までにしておく。信州上田で足引っ張られて軍勢が足りない徳川にしてみれば城攻めで時間も兵力も使いたくない。
そんなところに、いつ裏切るかわからない物騒な小早川秀秋がよせばいいのに松尾山に篭る。
ここから信じられない展開が発生している。
西軍は雨降り・夜間という悪条件にも係らず数万の兵力を伊勢街道を迂回して関が原という狭隘地に展開するのだ。その距離17kmあまり。
ナポレオン時代の兵力の移動スピードがおよそ20~25kmといわれているのに、西軍武将たちはあっさりそれを一晩でやってのけたのである。いくら戦国時代、全国主要街道であるから整備されている街道とはいえ、非常識極まりない。もっとここらへんのすさまじさに触れていいんではないだろうか。
大垣城につめていたといわれる4万。その兵力が一晩で移動するのだ。街道の幅が良く言われるように鎌倉街道で幅4mといわれるがそんなことはあるまい。とはいえ10mは行き過ぎだろう。ここは暫定で7mとしておく。ここを3列で移動したとして、騎馬もいるから1.3万の兵力。甲冑着込んだ雑兵が進むから1kmあたり25minとして、17km×25min=425min=7h。従軍歩兵の場合縦の列の間隔はおおむね...なんだ、隊列は本人含んで1mとして最大10km程度(馬もいるからそれ以上だろう、きっと)
大体、これ移動だけの話だから、布陣はまた別の話しだ。これを夜間、雨中という悪条件でこなしたのだ。そりゃ移動先で水もないとか言うのはあたりまえだ。そんなこと想定してないんだから。
徳川勢も大垣城に形ばかりの包囲をしいて、あとは南宮山にも警戒用の兵力置いて関が原に突入する。なんのことはない。
いつの段階で松尾山に小早川秀秋が入ることを知っていたのだろうか。事前に知っていれば、おそらく松尾山の小早川秀秋しかいなければあっさりと城を明け渡すだろう。...と思っていたら、朝日が出ると西軍本軍が待ち構えていた...という始末だったんじゃないだろうか。
あるいは、大垣城に留まっているものと考え、ある程度は部隊を置いとくつもりだったんだろうか。
まぁ、さすがに戦国武将カンスト連中ばかりだから合戦を決意したのもさすがだと思うけど。
確かに戦場の幅が足りないせいで大混雑状態だったのは致し方ないとはいえ。
一方の宙ぶらりんとなったのは毛利秀元らだろう。一応安国寺と石田の間ではある程度打ち合わせがあったらしい。東側で警戒兵力そのものを拘束させておけば、徳川は狭隘地に栓をされた状態になるのだから。
お互い、想像もできない出来事で戦端を開いた...といわれれば確かにそういうケースはありえるだろう。石田三成は後世言われるほどボンクラでもないし、戦下手でもなかった。果断な対応だったし、戦国末期のウォーモンガー達も良くこれに追随した。まぁ、人望が無かったし、もう少し人材がいればよかったのにね。
戦場はいくら事前に準備したとしても常に錯誤の連続で、どう帳尻を合わせるか、ハッタリとその場しのぎで決着をつけることもあるのだ。
(ま、だからといって事前準備をおろそかにしていいわけではありません。手元のカードを増やすのは指揮官にとって必要な役目です)
というわけで今更、関が原の戦いについてのメモとして。
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