2023年3月18日土曜日

合衆国海軍通史 私家概要 1.6.アメリカ革命戦争(一七七五年~一八八三年)その二。中盤戦。

 1.6.アメリカ革命戦争(一七七五年~一八八三年)その二。中盤戦。

 新世界を革命する力を。

 一七七六年の春以降の革命戦争を要約しつつお話していきましょう。


 一七七六年、この時期の大陸会議・十三植民地群の立場は厳しいものでした。

 大陸会議はボストンの包囲を行いつつ、カナダ方面のイギリス軍勢力を排除しようと考えていたのですが、カナダ侵攻作戦、そしてシャンプレーン湖を巡る一連の戦い、その何れもに敗北した植民地群側は思ったような戦果を上げられなかった為です。

 先にも書いたボストンを巡るバンカーヒルの戦いのあと、イギリスは地形的に防御が難しいボストンの放棄を決定。

 次なる戦いは一七七六年七月から翌年一月まで続くニューヨーク・ニュージャージー方面戦闘(キャンペーン)と呼ばれる一連の戦いとなりました。


 一七七六年三月にボストンを海路、撤退したイギリス軍は現在のカナダ領ハリファックスで部隊の建て直しと兵力補充を行い、合わせてドイツ人傭兵も加えて、七月三日にニューヨークへ上陸を行おうとします。

 もともとニューネーデルランドとも呼ばれていた現在のニューヨークは、どちらかというとイギリス支持派が多い土地柄でもあり、イギリス側に本国からの増援をうけやすく、防御に容易く海上からもアクセスしやすいニューヨークに上陸・占領して、拠点とすることでこの戦いを有利に勧めようしようと考えていたわけです。

 何よりニューヨークの位置は十三植民地群にしてみれば北部と中央の丁度クサビの位置にあるわけで、喉元に突き刺さった刃のような形になったわけです。

 優勢なイギリス王立海軍艦隊の支援もあり、上陸したイギリス軍に対して迎撃したワシントンの軍勢は敗北し、貴重な兵力を失い撤退せざるをえませんでした。

 ニューヨークは先にも書いたように元々イギリス支持派の多かったため、この地域の住人達はイギリス軍を歓迎したと書かれています。

 以後、ニューヨークは革命戦争終結までイギリスの拠点として占領されつづけることになるのでした。


 ワシントン、そして大陸会議にとってもこの時期は苦しい戦いが続きます。


 無理もありません。この時期の民兵はあくまで期間限定の雇い兵同然でしたので、折角の訓練を重ねても任期が戻れば居住地へと戻ることを選択する者が多いため「軍隊」として運用するには難があったのは事実でした。民兵を維持するための予算も、大陸会議には乏しく、必然参加植民地からの提供を受けねばなりませんでしたし、当然滞りがちでした――これは革命戦争を通じて言えることでしたが。

 大陸会議にも厭戦気分が広まる中、劣勢の立場が続くジョージ・ワシントンは配下の部隊の兵士、つまり民兵たちが所定の活動期間を過ぎて故郷に戻るもの、あるいは無許可離脱、つまり脱走していく者も多い自らの軍勢の中で、指揮官である自身に批判が高まることを自覚したためか、まず、小さくとも軍事的勝利という成果を欲することになります。

 ワシントンは限定的な反撃を選択。冬のデラウェア川を部隊を渡河させることに成功させるとイギリス軍占領地であるトレントンを襲撃し、現地守備にあたっていたドイツ人傭兵部隊を撃破・捕虜とするだけでなく欲してやまない軍需物資、武器弾薬の獲得に成功し、戦線を何とか押し上げることにも成功します(トレントンの戦い)。

 軍兵力で見れば大陸軍側二四〇〇、イギリス軍(ドイツ人傭兵部隊)一四〇〇の衝突で双方の戦死者は一〇人を超えない、ある意味小競り合いのレベルでしたが、勝利であることにはちがいありませんでした。なにより司令官であるワシントンの威厳が少なからずとはいえ保たれたことも重要です。

 これにより大陸会議の拠点でもあるフィラデルフィア前面から戦線を大きく北へと動かすことに成功。ワシントンは貴重な時間を稼ぐことに成功します。

革命戦争序盤のニューヨーク・ニュージャージー方面の戦いです。ロングアイランドとニューヨークを失ったワシントン軍は大きく迂回して南西のペンシルベニアまで撤退しますが、その後、一時的な反抗作戦であるトレントンの戦いで自ら指揮して冬のデラウェア川を渡りイギリス軍を破ると、数度のイギリス軍側の反撃を退け、ニュージャージーまで戦線を押し上げることに成功します。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:NY-NJ-retreat-1776.svg (2023/01/30)


 時間は些か遡り、ニューヨークを失陥した一七七六年の七月、フィラデルフィアの大陸会議は苦しい状況ではありましたが、ある種の高揚感と共犯意識が横溢していたのかもしれません。


 この年の七月四日、大陸会議は一か月前より始まった独立宣言起草のための検討をようやく終えて、独立宣言を行います。ここに十三植民地群はイギリスからの独立を宣言。

 それぞれの植民地は、各々の自治政府・議会・憲法・軍を持つ邦(State)であるとし、連合国家としての、アメリカ連合諸邦(United State of America)が成立します。

 合衆国じゃないの? と思われる向きもありますが、まだこの時、合衆国憲法は制定されていませんので、ここはアメリカ連合諸邦と呼ぶのが良いでしょう。

 昨今のアメリカ史に記述ではStateを『州』として統一して訳している場合も多いのですが、従来の日本国内のアメリカ史では、植民地⇒邦(State)⇒州と変化を区別しているものが多いこと、あくまで合衆国憲法と連邦制に移行する前であることなどを踏まえて、ここではアメリカ連合諸邦と区別して記述させていただきます。


 さて、あまり知られてはいないことですが、実は独立宣言に至るまで十三植民地群の中でも色々と思惑がありました。実はレキシントン・コンコードの戦い後でも、イギリスとの和解、妥協が可能であると考えていた植民地の代表らも多く、筆頭はペンシルベニア代表のジョン・ディキンソン(John Dickinson)らで、逆に独立を求めるジョン・アダムスらは少数派だったようです。

 後世、アメリカ建国に至るまで、いささか虚飾と幻想に満ちた物語が普遍的でもありますが、アメリカ史を読むと、大陸会議の設立時においてもイギリスからの『独立』を考えている一派は少数派であり、総じて『権利要求』的な側面が強かったことは否めない事実だと考えます。

 そのためか、ディキンソンらは後にイギリスのジョージ三世に対して「オリーヴの枝の請願」という名の積極的な和平、国王による調停を求めた文章をまとめ、大陸会議の承認を得て七月にイギリスへと送付します。

 もっとも、ジョン・アダムスはこの請願に意味はないだろうという文章を残しており、大陸会議とてあまり一枚板でなかったことを示しているかもしれません。

 ジョン・アダムズの読み通り、この嘆願書はイギリスに受け入れられることはありませんでした。しかもそのその反応は、一七七五年八月にイギリスのジョージ三世が発布した「反乱と扇動を鎮圧するための布告(Proclamation of Rebellion)」で答えられる形となります。

 続いて一〇月には反乱鎮圧のために「外国の友好的な援助の申し出」を受けるとイギリスが発表したことで、独立戦争にドイツ人傭兵も派遣されることになったわけです。これが先にご説明したトレントンの戦いでドイツ人傭兵が戦いに加わった理由となります。


 イギリス側はあくまでアメリカ大陸での一連の動きを「反乱」であるとしたことは間違いなく、このためにそれまで本国との条件闘争的意味合いが大きかった大陸会議の空気が少数派であったはずの『独立』へと傾きだすのはこの時期からの模様です。

 ちょうどこの頃、英国から渡ってきた思想家トマス・ペイン(Thomas Paine)が一七七六年一月に「常識(Common Sense)」という薄い本を発刊したのも原因の一つだとされています。

 この本には世襲君主を否定し民主共和制が重要であると述べられており、この内容は十三植民地の人々に受け入れられ、確固たる潮流となっていきます。

 当時の植民地群の人口二五〇万に対して、五〇万が売れたといいますから、今でいうベストセラーになったわけです。

 かくして大陸議会のみならず各植民地の人々の間でも独立への気運が高まります。

 とはいえ、まだまだ独立が現実性をもっていたのか、と言われると微妙な点もありました。


 一つには大陸会議の法的位置づけも問題でした。

 もともと十三植民地からの代表(それも植民地の規模などもありますが、複数人であることもありました)による協議とされたものの、一七七六年のこの時に至るも権限も何もかも曖昧でした。

 そのせいもあってか、会議に出席していた代表メンバーは必要であれば自分たちの出身植民地の自治政府へと働きかけ、必要であれば出身植民地政府すら入れ替えようと活動していた者もいたほどです……これは何も権力ほしさ、というわけではなくイギリスから派遣された総督が選んだ政府要員だったため大陸会議への関与に熱心だった為、というケースもあり、一概にはいえません。

 ジョン・アダムズら独立派は五月から活動しだすと各植民地においてイギリスへの忠誠を放棄するように求め、各植民地への説得などに時間を要し、七月になって発表した。というのが独立宣言までに至る経緯のようです。

 第二回大陸会議で、後に第三代大統領となるトーマス・ジェファーソン(Thomas Jefferson)を長とする五人が、各植民地が独立を選ぶか否かの採択のための文書を期することが決定し、これが後にアメリカ独立宣言と呼ばれる文章となりました。


 ――ちなみに独立宣言そのものも反対する大陸会議内でも多く、ジョン・ディキンソンのように投票に出席しないことで意思表示を示したものもいます。

 後の世で言われるような大陸会議における「全会一致の独立宣言」とはこのように幾分ファンタジーと生々しい勢力争いの果ての出来事でもあったわけです。

 それでも彼らは、この独立が道半ばで頓挫した場合、自分たちが処されることを覚悟しつつも署名したわけですから、その覚悟は並々ならぬものがあったのは事実です。


 さて、話を冒頭に戻して何故にこれらの戦いが「革命」と呼ばれるのか。アメリカ側から見ることで見えてきます。彼らにとって英国の代表たる国王とそれに従う議会を否定するのみならず、植民地の中で「王」を立てることはありませんでした。


 独立宣言についてはアメリカンセンターに日本語訳が記載されていますので興味のある方はご一読ください(「独立宣言(1776 年)」アメリカンセンター 2023/1/17 確認 https://americancenterjapan.com/aboutusa/translations/2547/)。


 ……英国では清教徒革命から続く王政復古、そして名誉革命により議会が王を廃絶し、オランダ出身のウィリアム二世を呼び寄せるなどの展開を示す一方で、十三植民地群はまず王の支配そのものからの独立を目指すことになりました。

 これらは後のフランス革命同様、王権神授説から続く王権の否定でもあったわけで、まさしく「革命」であったわけです。

 無論、先にも触れた通り、これがどこまで最初から最後まで意図された「革命」運動であったのか、と言われると些か懐疑的にもなります。これは当のアメリカ人からも指摘があったりすることは確かです。

 それでもなお、単純にイギリス本国からの植民地支配を願う独立運動であると、この戦いの意義を小さくしてしまうことはないと思われます。彼らは戦いの最中にまさしく王権に寄らない、共和政体(民主主義、ではないことに注意してください)を求めて戦いを継続することを選んだわけです。

 独立への動きはさらに加速をしつづけます。

 苦しい戦いが続く中、大陸会議は一六か月も協議を続けて一九七七年一一月に「連合および永遠の連合規約(Articles of Confederation and Perpetual Union)」を採択するのですが、いわば建国の意志統一に対してすべての邦が賛同することを求めたために、この締結に数年を費やすことになります。なんとすべての植民地が賛同したのはこれより後、一七八一年三月で、三年余を費やすことになるのでした。

 これもまた無理もないことでした。

 元々、イギリスに対する統治の反発から発生したにもかかわらず、独立するにあたって統一政権を打ち立てるということに、各々の邦の中でも温度差がありました。西部地域の未開拓地の取扱いにも問題があったことは事実です。

 それでも一七八一年三月にこの賛同をもって初めて「アメリカ合衆国」が成立するのですが、さらにその後、大陸会議から連合会議と名を変え、さらに合衆国憲法を制定するまでにもまだ紆余曲折が生じることになります。この話は最後に語ることとして、さらに厄介な問題もありました。

 この時期でも、いえ、革命戦争全般において、植民地群において民衆すべてが独立支持派であったのか。と言うとそうではなかったことに注目すべきでしょう。

 大きくわけてアメリカ植民地の中でも独立派、中立派、王党派(トーリー、あるいはロイヤリストと呼ばれていました)に分かれていました(しかも、後にご説明しますが、独立派の中でも連邦派とそうでない派にも分かれています)。王党派は概ね当時の十三邦の中でも二~三割ほどだったと伝えられています。

 この対立は革命戦争中期から後半にかけての戦いで大きな問題となっていきます。


 またもう一つ付け加える点もあります。実は当時から黒人奴隷の取扱いは焦点の一つでした。革命戦争前後、バージニアのイギリス総督はイギリスに組する黒人奴隷を解放するという布告を出して、これも衝突の争点となっていました。

 皮肉な一件としては事実、のちにイギリス軍に襲われたジョージ・ワシントンの農園でもこの布告にしたがって黒人奴隷がイギリス側についた話も残されています。

 トーマス・ジェファーソン(Thomas Jefferson)が記した独立宣言にも、黒人貿易にまつわる記述があったそうですが、十三植民地群の南部、南北カロライナなどの問題を踏まえて記述は削除された、という記述があります

 しかし、そうはいってもジェファーソン自身、バージニア植民地の自分の農園では黒人奴隷を使役していましたし、彼の言う黒人解放とはつまるところ後の市民権、公民権の付与という形ではなく、いっそアフリカへ送り返してしまうという思想でもあったようです(これは後に変容したとの指摘もあります)。しかも妻の異母姉妹・黒人の血が流れている奴隷のサリー・ヘミングスと長きにわたって愛人関係もあり、昨今、DNA鑑定で少なからずジェファーソンとサリーの嫡子がいたという事実が確認もされており、ここのところは色々陰影がある人物、とも言えます。

 実のところを言えば、ワシントンしかり、ジェファーソンしかり、中部・南部の各植民地の有力者たちは黒人奴隷がいなければ農園運営も成り立たない側面も確かにあり、イギリス側の黒人奴隷解放の動きに抵抗して大陸会議に加わった、という面も否定できない事実と言え、その点でも非常に複雑なものを感じさせます。

 その後、二五〇年ほど経て、BLM運動で色々像が引き倒される事になるとは歴史の皮肉というか……本筋ではないのでここまでにしますが、そういった色々と建国の時にある欺瞞というか、内に抱える問題は後に国を分断する戦いへの導火線となるのですが、この話は改めてと致しましょう。


 さて、このような独立宣言のあと戦況がどうなったか。

 革命戦争におけるアメリカ大陸での戦域は三つに分かれていました。

 カナダと国境を接する北部方面、ニューヨークからフィラデルフィア中心の中部方面、カロライナなどの南部方面です。

 このうち、一七七七年、特にその後半は北部及び中部で大きな動きがありました。


 まず中部地方では、九月にイギリス軍はまさしくお手本のような海上機動によってアメリカ連合邦国側の首都とも言えるフィラデルフィアへ攻め込むために、チェサピーク湾深部、エルク河河口付近に苦労しつつも上陸に成功します。

 フィラデルフィアまで五〇マイルほどの距離で、首都前面への着上陸といった形でした。ワシントンの軍勢はただちに上陸したイギリス軍に対して戦端を開きます。

 双方とも軍勢は一万五千前後。ほぼ同数の戦いだったのですが、ワシントン軍側が稚拙な戦いに終始してしまい、敗北してしまいます(ブランディワインの戦い)。


 この戦いの結果を受けて大陸会議はフィラデルフィアを離れ、ペンシルベニアのヨークへと移転することを決定し、イギリス軍は無血でフィラデルフィアを占領することに成功するのでした。とはいえ首都放棄とは中々に手痛いダメージと思いきや、そもそも『緩やかな』同盟関係でもある大陸会議の移転は、致命的なものにはならなかったのも実情です。

 通常、国家対国家の戦いであれば敵首都失陥の恐れがあれば和平なりの条件闘争が出来るのがそれまでの流れでしたが、大陸会議側は継戦を選択しましたし、この点、イギリス側の立場に立ってしてみれば対ゲリラ戦闘のような国内治安戦なわけで、『後背地』がある敵勢力を分断する必要があったのも事実でした。

 しかも敵対する勢力の拠点に対して収奪行為などをすれば地域民衆を敵に回すわけで、それほど強圧的な手段を取れないために、逆説的に敵対勢力の被害が少ないというジレンマもあったのではないでしょうか。


 続いて北部方面で大きな動きが発生します。


 一〇月、イギリス軍の策動が始まりました。北米カナダ方面の軍勢が南下を開始したのです。シャンプレーン湖、そして五大湖を迂回して西方から東方へと向かう二手の軍勢が進撃を開始しました。目的は植民先にも述べたシャンプレーン湖からハドソン川を下ってイギリス側の拠点となっているニューヨークまでイギリス軍へと打通することにありました。

 これが成功すれば連合諸邦は勢力的に分断されることになります。しかも成功すれば、大陸会議の主な思想面での牽引役でもあるニューイングランド方面の植民地が切り離されるわけで、大陸会議としては何とてもこれを防ぐ必要がありました。

 イギリス軍の北部方面を担当していたジョン・バーゴイン(John Burgoyne)将軍率いるカナダ方面イギリス軍の本隊は、緒戦でアメリカ側が奪ったタイコンデロガ砦を奪還。

 要衝のタイコンデロガ砦も簡単に失陥した形となった大陸軍側でしたが、兵力をかき集める一方、遠くポーランドから駆けつけた義勇兵軍人、タデウシュ・コシチュシュコ(Andrzej Tadeusz Bonawentura Kościuszko)の巧みな差配によって、交通路を塞ぐことに成功しイギリス軍進撃の遅滞に成功します。

 それでも南下しようとしたところ、北部方面軍側のみならずニューヨークの軍勢も(フィラデルフィア方面に進撃している真っ最中で)連携も悪く、サラトガの戦いでホレイショ・ゲイツ(Horatio Gates)将軍率いるアメリカ大陸軍部隊に敗れることになります。


サラトガの戦いに至る地図です。

https://en.wikipedia.org/wiki/File:Burgoyne%27s_March_on_Albany,_1777.svg (2023/03/09)

サラトガの戦い以後、降伏することになったバーゴイン将軍とそれを受け入れるゲイツ将軍の絵画です。この戦いは北部方面におけるアメリカ連合諸邦側の優位を確立したのですが、それだけではない、大きな転換点を迎えるきっかけともなりました。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Surrender_of_General_Burgoyne.jpg (2023/2/20)


 一方の中部方面ではワシンシン将軍が占領されたフィラデルフィア郊外の渓谷、バレーフォージに陣を構え、厳しい冬に耐えながらも軍勢を再訓練し、統制を取り戻そうとしていました。

 ここで活躍したのはワシントンを支える義勇兵、プロイセン出身の軍人、フリードリッヒ・ヴィルヘルム・フォン・シュトイベン(Friedrich Wilhelm von Steuben)でした。

 彼の手によって統制と軍隊行動を叩きこまれた民兵はこの戦いの後半にその働きを示すことになります。

 また、先のフィラデルフィアを巡る戦いから、フランスからやってきた貴族、ラファイエットこと、ラファイエット侯爵マリー=ジョセフ・ポール・イヴ・ロシュ・ジルベール・デュ・モティエ(Marie-Joseph Paul Yves Roch Gilbert Du Motier, Marquis De La Fayette)もワシントンの幕下に加わっており、アメリカ革命戦争のワシントン軍は国際色豊かな軍勢でもありました。

 ちなみに先程お話したコシチュシュコも後にワシントンの軍勢に加わっています。彼らの功績を称えて、もう一人――これは後程語らせていただきますが――四人の軍人を顕彰するべく、ワシントンDC、ホワイトハウスの近くにあるラファイエット公園に銅像が建てられているのです。


シュトイベンによる訓練を描いた絵です。プロイセン出身らしい規則と規律に厳しかった彼の手によって大陸軍は精強さと規律を獲得することになります。

https://en.wikipedia.org/wiki/American_Revolutionary_War#/media/File:Baron_Steuben_drilling_troops_at_Valley_Forge_by_E_A_Abbey.png (2023/03/09)


 首都ともいえたフィラデルフィアを失陥するなどの敗北もありましたが、サラトガの戦いでの勝利はアメリカ側にとってひとつの転機をもたらすことになります。


 ――そう、独立宣言を行ったアメリカ連合諸邦とフランスとの間に同盟が結ばれるきっかけともなったのです。


2023年3月11日土曜日

合衆国海軍通史 私家概要 1-5 私掠船話

1.5. 私掠船(≠海賊)の時間だ!(Now, it's time for some privateer! (not piracy))


 私掠船とは何ぞや。と、簡単な始まりからお話しましょう。


 そもそも紀元前から存在する海賊行為に対して国家承認による合法化が行われだしたことで「私掠船」が誕生したのは革命戦争よりさらに遡った十三世紀中ごろの話です。

 一二四三年、イギリスのヘンリー三世の御代にまで遡ります。当時、スペインとフランスの間で対立していたヘンリー三世は「敵国を悩ませる(annoying the King’s enemies)」のために、自国商船の船長に対し、航海中特定の他国船、つまり、スペインやフランスの商船を攻撃してその船の積荷を奪ってもよいとする認可状を出し始めたのが私掠免許(Letter of Marque)の始まりとされており、この時には「捕獲物の半分を国王に上納することが求められた」そうです

 一二九五年には、ポルトガル船による略奪の被害を受けた船主が、被った損害を回復するためにポルトガル船を拿捕しその積荷を捕獲する許可をヘンリー三世の後を継いだエドワード一世に願いでます。この願いに答えて出されたのが「Letter of Marque and Reprisal」、私掠免許に付け加える形で「報復復仇 (reprisal)免状が発行されます。※2023/03/13ご指摘を受け、修正。

 国が大手を振るって外国財産に対しての収奪を許可するわけですから、わりと条件が厳しく、場合によっては捕獲物が私掠許可状に示された条件に則らずに略奪されたものであると認定された場合、捕獲された船や積荷は解放され、時には被害者に賠償金が支払われる場合もあったそうです。

 とはいえ、結局これらの免状が出るということは戦時、あるいは準戦時状態ですので、次第に「報復 (reprisal)」ではなく最初から「利益獲得」を目指しての商船襲撃が発生していくようになるわけです。

 かくして、私掠免状による利益獲得が目的となると話が色々と代わってきます。


 一六世紀のエリザベス女王時代となると、私掠船運用は大規模な「ビジネス」となっていき、当時対立していたスペインに対して、私掠船について「共同持株会社」が立ち上げら

れ、商人だけではなく国王、貴族、役人まで加わって国を上げての海賊行為が横行します。

 何しろスペイン船籍の船を襲って収奪した利益のうち一割を国に収めれば、あとは船員・出資者に分配すればよく、二〇〇隻以上の船が私掠船に従事したと書かれています。

 これによる収奪品による利益は当時のイギリス輸入額の十~十五パーセントに達したと書かれていますから、中々のものです。しかも免状交付もかなりルーズになり、国王からの、あるいは海事裁判所からではなく、海軍、あるいは海軍地方長官から発行される形となったり、場合によって出されずとも私掠行為が行われ、中立国船籍の船ですらお構いなしという無法状態になっていきます。

 さすがに見かねたエリザベス女王のあとを継いだジェームズ一世は海賊嫌いだったようでスペインとの和平成立もあって、この私掠免状を一切無効化し、腐敗する担当者を一掃します。そのせいでそれまで私掠行為もあってか強力だった海軍力の低下が著しくなるのですからままなりません。すくなくともイギリス本土近海での私掠船は姿を消したようですが、それは単に舞台が変わっただけ、とも言えました。


 私掠船行為に味を占めた者達の多くはカリブ海へとその活動の場を移します。欧州列強各国の利権渦巻くカリブ海で現地の領主たちは自らの権限でこの者達を雇い入れ、対立する国家の商船を襲わせるようになりますが、基本こうなると私掠船というより海賊船であり、諸外国から討伐対象となっていき、海賊行為に手を染めた船乗りたちは斃されるか、はたまたアフリカあるいはインド方面へと流れていくことになります。これがだいたい一七世紀末から一八世紀頭の話となります。


 さて話は戻って、海賊が表舞台から消え去り始めた十七世紀末、新たにフランスが私掠船免状を発行し出します。当時、フランスは、プファルツ継承戦争 (一六八九~九七) とスペイン継承戦争(一七〇二~一三)と、立て続けにイギリスと対立しており、海上交通路を掌握するために私掠免状を大量に発行します。海軍の規模、艦艇数で劣勢だったフランス側は海戦に寄らずして武装商船による商船活動を制限させることでイギリスを屈服させようとしたわけです。

 イギリスも大規模な損害を受けたイギリスは一時、大西洋での三角貿易すらままなくなり、彼らも対抗して私掠免状を発行していくのですが、大きな変化がそこにはありました。それは国へ収める取り分の変化で、最初期の私掠船の取り分が半分、そしてのちに一割と変化していくのですが、この時期、国に対して納めなくてもよいという形になります。

 合わせて、私掠船行為の前に事前に行う保証金の支払いと、その行動を規制する広範な規則への同意が求められる一方、私掠行為によって得た収奪金及び身代金の分配方法が明確化されます。

 国家が目的とするのは財政のためではなく、敵対国に対しての海上交通路の阻害が目的であると明示的に変化していったと見なせるわけで――歴史的に見ると、これが海上交通路を巡る「通商破壊(commerce raiding)」行為の始まり、とも言えます。


 さて、私掠船行為の歴史についてお話したところで話をアメリカへと戻しましょう。


 私掠船の活動は、一七七五年の初期からすでに始まっていました。各植民地では私掠船の許可を早々と出して活動を行っていたのですが、大陸会議として正式にイギリス船に対する私掠船許可を出したのが一七七六年三月の出来事です。

 とはいえ無制限ではなく、ある程度の統制も必要でしたので、先に語ったように私掠船の船主は、規則のもとで適切な行動をとることを保証するために金銭的な保証をしなければなりませんでした。

 一説によるとアメリカ革命戦争の間、約一七〇〇通の私掠免状が発行されており、八〇〇隻近くが私掠船として用いられ、約六〇〇隻のイギリス船を拿捕または破壊したとされています


 それだけ私掠船の働きが大きかったと言えば、大陸海軍と私掠船の規模について、「A History of American Privateers」にも書かれています


 アメリカの私掠船によるイギリス海運への被害総額は、戦争終結までに約1800万ドル、現在のドル換算で3億200万ドル強と推定されています。

 革命戦争においては大陸海軍の規模よりも私掠船の規模が数倍で大きかったことがわかります。

 私掠船はアメリカ沿岸部のみならず、大西洋、そしてイギリス本島近海などでも頻繁に行われていました。



当時の一般的な私掠船、16門の大砲を備えた〈ラトルスネーク〉号の模型写真です。

三本マストで、一列の砲列を八門、甲板に並んでいるのがわかります。

NH 84105 RATTLESNAKE Colonial 16 Gun Privateer, 1781

https://www.history.navy.mil/content/history/nhhc/our-collections/photography/numerical-list-of-images/nhhc-series/nh-series/NH-84000/NH-84105.html 2023/01/18



 さて、この私掠船、次第に世界的にその運用が白眼視されて、活動は低調なものとなっていきます。理由は言うまでもなく付随被害の大きさからでした。何しろ、私掠船活動には当該国のみならず中立を宣言してる国の船舶すら巻き込まれること大だったわけで、だんだん無視できないものとなっており、最終的には一八五六年のパリ宣言によって私掠船活動は違法であるという認識が決定されます


 ①私掠行為は現在も、将来も禁止される (is and remainsabolished)。

 ②中立国船は、戦時禁制品を除く敵国の物資を扱える。

 ③中立国の物資は、戦時禁制品を除いて敵国船によって押収されない。

 ④ 海上封鎖は、それが拘束力を持つためには、実効を伴わねばならない。即ち、敵国沿岸への接近を実際に防ぐに足る十分な戦力によって維持されねばならない。


 これらが取り決められて、概ね諸外国も同意、調印に至るのですが、条件があり、調印していない国に対してはこの宣言は適用されないものとされています。

 ちなみにこの後、一七八八年に制定されたアメリカ合衆国憲法第一条第八節第十一項において議会が決定できるものとして「戦争を宣言し、船舶捕獲免許状を授与し、陸上および海上における捕獲に関する規則を設ける権限」があるとしていますが、パリ宣言にアメリカ合衆国は調印していません。

 このため、二〇二二年のウクライナ戦争に伴ってアメリカがロシア船籍船舶に対して私掠免状を出して差し押さえという下院議員の法案提出があったとニュースになりましたが、これが理由の一つとなりました

 その後の話は聞いていないので、法案が取り上げられることがなかったようだと思われますが、意外と私掠船という言葉が現代にも残っていることに驚きます。


 このように大陸海軍の設立から私掠船についてお話させていただきましたが、話は一度ここで終わらせていただき、改めて時代を少し遡り、一七七六年のナッソー襲撃以降の革命戦争の経緯について、お話しましよう。


2023年3月4日土曜日

合衆国海軍通史 私家概要 コラム1

 コラム1. 戦列艦、フリゲート、ブリガンティン、スクーナー……そして海軍の階級について。

 ここで色々ご説明を続けるまえに改めて帆船時代の船の区分や階級制度について簡単にご説明したほうがいいでしょう。ただしこれも変化が多いため、一八世紀中ごろ、という認識でよまれることをお願いします。

 当時の主力艦はだいたい以下の区分という理解で良いはずです。


 戦列艦(Ship of the line

 外洋帆船として一五世紀より広がったキャラック船は、後にガレオン船となり戦列艦として主力艦艇として扱われました。

 二、三層の甲板をもって五〇門以上の大砲を搭載した大型艦で、一般に海軍の隻数としてカウントされるのはこの艦種でした。

 イギリス王立海軍では搭載する砲の門数とサイズによって一等艦~四等艦と区分がありましたが、五〇門~六〇門を搭載していた四等艦は一七五六年に実質廃止されています。

 五〇門搭載艦はフリゲートと見なされる形となる一方で、六〇門前後搭載艦は、若干数、小型、喫水が低いということから北米海域や北海海域などで一部の海域で使われていたという記述もあります。くわしくは英語版wikipedia「Rating system of the Royal Navy」(https://en.wikipedia.org/wiki/Rating_system_of_the_Royal_Navy#Royal_Navy_rating_system_in_force_during_the_Napoleonic_Wars)などをご確認ください。

 


 フリゲート(Frigate)

 現代の艦艇でも生き残る艦種の一つでもある〈フリゲート〉。

 この時代背景を語ると些か複雑です。時代によってもサイズが異なったりしますので、以下の説明は革命戦争時代だと思っていただければ幸いです。

 フリゲートの語源は「フレガータ」(fregata)からとも言われ、地中海のガレー船からの発展系でした。十六世紀後半、オランダ共和国海軍が作り出した細い船体を生かした高速軍艦はイギリス王立海軍でも取り入れられるようになります。一七世紀の頃には、五級、六級の軍艦として取り扱われるようになりました。

 概ね革命戦争当時のフリゲート艦として基本となるのは一七四〇年のフランス海軍フリゲート艦〈メディ(Médée)〉であろうとされています。八ポンド砲二六門を上甲板に搭載し、三八〇トン、長さ三七メートル・幅一〇メートルという長い船体でした。

 イギリス王立海軍は七年戦争で、フランス海軍のこのフリゲート艦を多数拿捕し、その思想と技術を取り入れることになったようです。砲を下層甲板(ガンデッキ)に収納することなく上甲板に設置していることが特徴的でした。これにより喫水線上の構造物の高さが抑えられ、軽量で高速性を獲得することになったわけです。

 イギリス王立海軍は革命戦争前後、二十八門搭載の有名な〈エンタープライズ〉型フリゲートなどが運用されていました。このように大型フリゲートをグレート・フリゲートとして五等艦、扱いとし、従来の小型な二〇~二四門までのフリゲートを六等艦として区別するようになっていました。

 フリゲートの武装は戦列艦に比べると貧弱ですが、細い船体と三本マストがもたらす快速力は魅力で、海戦に先駆けての偵察や通報任務、それ以外であれば通商破壊、あるいは私掠船排除にも使われました。私掠船同様、敵国民間船、あるいは私掠船そのものを拿捕した場合は売却することで乗組員らに利益が出ますからして、乗組員にも懐にも良しという魅力的な艦サイズでもあったわけです。言わば現代軍艦でも言われるところのワークホースとして非常に使い勝手が良かったとも言えるでしょう。

 一方、大陸海軍では先にも書いたように徴用・改造した武装商船とは別に新規のフリゲート艦を一三隻建造することを決定していました。大陸海軍は、戦列艦を建造することなくフリゲートを大型化する方を選択した形でした。

 この時、作られたフネが三二門搭載のフリゲートで、USS〈ハンコック〉に代表されるフリゲートは大型で快速でかつ武装もイギリス側より強力でした。

 これは後の創設された合衆国海軍の最初のフリゲート艦でも見られたのですが、アメリカ創設期の帆船軍艦の特徴ともいえそうです。

 イギリス側も単艦行動中に接敵されると拿捕(降伏)してしまうケースもありました。〈エンタープライズ〉型の〈フォックス〉もそのケースだったりします。……もっとも、その後、逆に英国が〈ハンコック〉を拿捕。合わせて〈フォックス〉を取り戻し……次はフランス海軍に拿捕されるのですが。ともかく、イギリス王立海軍にとって、大陸海軍の建造する大型フリゲートは使い出がありました。拿捕したものをはじめ、時に沈んだ船も揚収して、再利用していたりもするほどでした。


https://en.wikipedia.org/wiki/HMS_Fox_(1773)#/media/File:Hancock_Boston_Fox.jpg (2023/02/16)


  建造されたフリゲート、USS〈ハンコック〉は以下のような形でした。


NH 72801-KN "USS HANCOCK, 1776"

フリゲート艦〈ハンコック(Hancock)〉。全長(バウスプリット含む)41.63 m(136フィート7インチ)、全幅10.82m(35フィート6インチ)、乗組員二九〇名。一二ポンド砲二四門、六ポンド砲一〇門搭載のこの艦は数奇な運命とも言えます。建造は一七七五年十二月に建造が開始され、一七七六年四月に任務に付きます。ところが一年あまり後の一七七七年七月にHMS〈レインボー〉に拿捕されイギリス王立海軍のHMS〈アイリス (Iris)〉に。船そのものは良く出来ていたようで快速でならしたようです。その後、同じく作られた大陸海軍のフリゲートを拿捕するなど実績をあげたものの、革命戦争後半、アメリカに加担したフランス海軍のフリゲート艦〈エグレット〉に拿捕され、フランス海軍のものとして革命戦争を戦うことになるのでした。

https://www.history.navy.mil/our-collections/photography/numerical-list-of-images/nhhc-series/nh-series/NH-72000/NH-72801-KN.html 


 ただし、大陸海軍のフリゲートはその高評価と裏腹に運用期間は短いものになりがちだったのですが、その話はまた後ほど、と致しましょう。


 スループ(Sloop-of-war)、コルベット(Corevette)

 ここから艦艇区分の闇がさらに深くなります。というのも、フリゲート以上に時代背景や国によってサイズ、用途が同一だったりするのに名前が違っていたり、その逆もしかり。ということになるのです。

 例えばスループですが、これはイギリス王立海軍の一般的な使い方としてフリゲート以下、六等艦より下の艦艇のことを後に説明する船種――帆装やサイズによる違い――に関わらず、ひっくるめてスループと読んでいたのです。英語で読むと、Sloop-of-warとして区別がつくのですが、日本語訳ですとさっぱりわかりませんね。十八門前後、二〇門までの大砲を装備している船で乗組員数は概ね一〇〇名前後の規模感だと思っていれば間違いがありません。

 コルベットは同サイズの艦艇をフランス海軍で呼称したものとなります。ナポレオン戦争以後、イギリス王立海軍もスループよりさらに小さい船を同様にコルベットと言いだしたので混迷を深めていくのですが、まずはこの程度の認識で良いと思います。


 上記のような艦種とは別に帆装様式による帆船の種類もあります。


 スクーナー(Schooner)・ブリガンティン(Brigantine)

 一般に中型帆船で、概ね二本か三本のマストからなる船がスクーナー、ブリガンティンと呼ばれている船です。当時の商船に多かったようです。そのため、後述する私掠船などの多くがこのタイプだったそうです。

……スクーナーが二本マストで縦帆(船の中心線に沿った帆)があるタイプで、ブリガンティンがマストにある帆が横帆であることが特徴的でした。

 スクーナーの例。二本マストに縦帆があり、メインマストから艦首に向けて前帆(ジブ)があります。場合により艦首から伸びた棒、バウスプリットがあるのもありました。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Sail_plan_schooner.svg (2023/01/18)

 上の図ではラグセイルと呼ばれるそれまでの三角帆から前部を切り落としたような形ですが、機能面ではかわりません。帆柱(マスト)と支索(ステイ)で端を固定された縦帆のメリットは風上の逆風でも切り上がり、ジグザグに前へと進めることが容易でした。

 前帆(ジブ)は、風上航(クローズドホールド)させるための向きを変える(タッキング)に用いたりするのに用いられます。


一般にブリガンティンと呼ばれるかのが二本マストのうちのメインマストが横帆で、残りが横帆、縦帆の組み合わせであるもの。二本マストすべてが横帆になるのがブリッグとなります。横帆ですと追い風の時は最適ですが、縦帆に比べると切り上がり能力がたりません。そのため、横帆・縦帆の組み合わせで良いとこどりしようとしたと考えると良いかもしれません。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Brigantine.png  (2023/01/18)


アメリカでは二本マストのうち横帆と縦帆を組み合わせたハーフロマイトブリッグ(hermaphrodite brig)が一般的にブリガンティンと呼ばれたと言われています。


https://en.wikipedia.org/w/index.php?title=File:Sail_plan_brig.svg (2023/01/18)


 スループ(Sloop)、カッター(Cutter)

 この他にもより小型の一本マストの船舶を指します。スループはジブが一枚のみでマストが艦首より。カッターはジブが複数で、マストが船隊中央にあるのが特色でした。

 現代のヨット相当と見て良く、一般に小型、沿岸航行向きの船舶でした。


 概ね上記のような区分ですが、時代により特徴も変わりますのであくまで目安程度に考えてください。


 

 階級制度のアレコレ

 階級(Rank)と書いたものの、実際のところ、この時期は現代海軍・軍隊における階級、というより役割(Position)、あるいは役職の意味合いが強いところがあります。

 さて、上記でご説明した『軍艦以下』のスループ艦を扱う艦長職をこの当時、イギリス王立海軍ではマスター・アンド・コマンダーと呼びました。航海長(マスター)兼務(アンド)海尉艦長(コマンダー)というわけです。

 ※一七九四年に改正され海尉艦長(コマンダー)とだけ呼ばれることになります。アメリカ大陸海軍は独立戦争時、海尉艦長として設定されていたようです。

 一般にスループ艦以上の艦艇では、艦長、一等海尉、二等海尉と士官が配属される一方で、准士官の役職として、上から航海長(マスター)・船匠(カーペンター)・掌帆長(ボースン)・掌砲長(ガンナー)・主計長(パーサー)と続いていました

 ちなみに当時のイギリス王立海軍では、士官はLieutenantという言葉だけで呼ばれて階級は特別ありませんでした。これが階級ではなく役割ありき、という点でもあるのですが、士官は士官候補生から選ばれ名簿に記載された順に、一等海尉、二等海尉……と続きます。時に訳語として一等海尉が先任将校として書かれる場合もあります。

 小型艦艇では、経験と能力のある航海長の役割を艦長を兼ねることになるので、航海長兼海尉艦長と呼ばれたわけです。一般に徴募されたりなんだりでスタートする水兵あがり、あるいは後ろ盾のない海尉として栄達できる最上位の役職でもあり、海尉艦長(コマンダー)になるためには昇任試験を受ける必要がありました。現代の軍隊階級で考えればここまでが尉官、大尉だと言えます。

 さて、士官が多い中でも海尉艦長からさらに上、フリゲート(五等艦)以上の艦長職、艦長(キャプテン)になるためにはさらに門が狭くなります。イギリスの海軍委員会(現在の海軍省)からの推薦をうけて国王が勅許として任命することから、海洋小説(の日本語訳)では「勅任艦長」として呼ばれる(ポスト・)キャプテンとなる必要がありました。

 いささか脱線すると、この勅任艦長、小説『ホーンブロワー』や『オーブリー・マチュリン』(前述した映画、「マスター・アンド・コマンダー」の原作)で重要なワードとして出てくるのでご存じの方もいらっしゃるでしょう。

 勅任艦長は有力貴族なり提督らの引きがなくしてはなかなか就任できず、就任できないとなると陸に上がったままで半給海尉となります。海上に出ればまだ収入の目もありますが、半給海尉では生活もままならない……というのは小説ホーンブロワーシリーズで、主人公のホーンプロワーが陸に上がって賭けポーカーで生計を立ててるという下りを読むと、透けて見えるものもあるかもしれません。

 実際に、役職としては艦長(キャプテン)と呼ばれており、勅任艦長、ポスト・キャプテン、とは呼ばれたわけではないようですが、王立海軍艦艇の艦長として国王に任じられる、という意味では勅任艦長という言葉は非常に魅力と威厳を感じますね。

 勅任艦長から選ばれるのが、一隻以上の戦隊を率いる代将(コモドール)になります。臨時、あるいは期間限定の役職で、艦長職の兼務もあれば、艦長とは別に任ずる場合もあったようです。

 アメリカ大陸海軍もそうですが、その後の合衆国海軍も代将以上の階級はしばらく存在せず、幕末、日本に来寇したペリー提督も、実際の階級は代将(コモドール)でした)。


 一方、イギリス王立海軍のほうを見れば、歴史的経緯もあっていささか面倒です。詳しく知りたい方は、赤色艦隊など検索して調べていただきたいのですが、提督(アドミラル)、副提督(バイス・アドミラル)、後任提督(リア・アドミラル)という階級(役目)に分かれていました。提督の指揮のもと副提督が戦闘を行い、艦隊後方の小艦艇群を率いるのが後任(後方)提督であると考えればなるほど、となります。

 よって現在の一般的な海軍階級として、大将、中将、少将がそれぞれ割り当てられているのもわかるかと思います。

 ただし、イギリス王立海軍はその歴史的経緯から、赤色、白色、青色の三色に分かれた艦隊にさらに分かれており、昇進順序はこの艦隊順でした。すなわち、青色艦隊少将(リア・アドミラル・オブ・ザ・ブルー)から白色艦隊少将(同・ザ・ホワイト)、そして赤色艦隊少将(同・ザ・レッド)と続き、青色艦隊中将(バイス・アドミラル・オブ・ザ・ブルー)と続くという形です。




https://en.wikipedia.org/wiki/Coloured_squadrons_of_the_Royal_Navy#/media/File:British_admirals_promotion_path.svg


 以上の説明はイギリス王立海軍のケースですが、改めて話を戻して大陸海軍の場合は、と言うと創設されて間もないということもあり、極めてシンプルで、艦隊司令官は代将、艦は艦長あるいは海尉艦長と、まぁ非常にわかりやすい体系でもあったわけです。



2023年2月18日土曜日

合衆国海軍通史 私家概要 1-4 アメリカ革命戦争(一七七五年~一八八三年)大陸海軍への道

 1.4.アメリカ革命戦争(一七七五年~一八八三年)大陸海軍への道

アメリカ革命戦争序盤~ボストンを巡る戦い


 一七七五年四月、アメリカ革命戦争の火蓋が、レキシントン、そしてコンコードで始まります。これがレキシントン・コンコードの戦い(Battles of Lexington and Concord)でした。ボストンに展開するイギリス軍正規兵が、ボストン郊外にあるコンコードのマサチューセッツ植民地民兵の武器庫を制圧しようとするのですが、その途中にあるレキシントンで先手をうってアメリカ側植民地民兵と衝突することになります。

 さて、誰が先に発砲したのか。当時のアメリカ側の絵画などではイギリス軍が先に発砲したのだとされているのですが、現在では双方どちらが先に発砲したのか、双方の証言では相対した双方の軍勢正面からではなく、その後方の発砲音が聞いたせいで、その後方の発砲音そのものもどちらとも、相手側の後ろから、という意見のせいで不明なところもあります。

 その後、アメリカでは色々この戦いを賛美、あるいは称える動きはあるのですが、日本人からしてみると、戦場の緊張状態がもたらした偶発的な発砲が衝突を呼んだ……ありがちなケースかもしれないな、としか見えない点もあります。

 ただもっともこの段階では小競り合いの規模でしたが、その先にあるコンコードでも植民地民兵の襲撃にあい、イギリス軍は撤退を開始します。しかしその撤退も追撃する植民地民兵の襲撃を受けることになるのですが。この戦いの結果、ボストンへとイギリス軍は撤退する一方で、衝突を知った各地からは民兵達が集結しボストンを包囲することになります。

 五月には民兵側は重火器でもある大砲を獲得するため、ボストンから二五〇キロほど北西にあるカナダに近いシャンプレーン湖、その南端にあるタイコンデロガ砦を無血で占領。百門以上の大砲を獲得します。

 六月、ボストン島とチャールズ河を挟んで対岸にあるチャールズタウン半島の丘、バンカーヒルをめぐっての戦いが繰り広げられました。ここから大砲を設置してボストンを砲撃されることを恐れたイギリス側は河を渡ってマサチューセッツ湾植民地民兵らが構築した野戦陣地へと攻め込み、犠牲を払いつつチャールズタウンを獲得することに成功します。

 これら一連の衝突を聞いた、バージニアで農園を営んでいたジョージ・ワシントン、マサチューセッツのジョン・アダムズら、のちに建国の父と呼ばれる者達が革命戦争に身を投じることになるのでした。

 六月十四日、改めてフィラデルフィアで開かれた第二次大陸会議において大陸軍(Continental Army)の設立が決まり、翌日、総司令官にジョージ・ワシントンが選ばれることになりました。

 かくしてここに十三植民地群によって形成される植民地軍と北米大陸に展開するイギリス軍との戦いが繰り広げられることになります。

 これが一七七五年から一七八三年まで八年近く続く長く厳しい戦いになると、予期していた人物は誰もいなかったにちがいありません。


……ここで革命戦争の経緯を語り続けるとますます長くなるので、一旦、海軍の話へと筆を替えたいと思います。



大陸海軍(Continental Navy)という名の『間に合わせの海軍(Adhoc Navy)』

 さて、いよいよもってこの海軍らしいお話へと突入します。

 植民地群が如何にして海軍を保持するようになったのか。その実体はどうであったのか。

 この一七七五年現在、彼我の海軍兵力はどうだったのかを確認してみます。


 イギリス王立海軍は七年戦争の余波で、艦艇の更新が進まず満足に使える戦列艦は四〇隻にも満たない状態でした。ただ革命戦争勃発時点で、カナダのハリファクスから東海岸南端のフロリダに至る沿岸には(戦列艦以外のフリゲートなども含めてと思われますが)二十八隻の軍艦があったとも書かれています。 

 一方、植民地軍側にはまともな軍艦を保持しているわけではありませんでしたから、ボストンのイギリス王立海軍側はほぼほぼフリーハンドで海上を行き来きできたため、ボストン包囲はあまり効果的ではありませんでしたし、後に説明するような私掠船の航行を許しても概ね制海権はイギリス側にあったと言え、この状態は革命戦争が転換点を迎える一七七八年まで続く状態でもありました。

 この様な状態でしたからイギリス本国の海軍卿、第四代サンドウィッチ伯爵ジョン・モンタギュー(John Montagu)からは、植民地群の『反乱』を制圧するには海軍による海上封鎖が効率的だという意見もあったようですが、当時のイギリス政府首相であるフレデリック・ノース(Frederick North)には受け入れられませんでした。

 イギリス側としては、植民地の反乱はあくまで一部であり、少なからずのイギリス支持派(王党派、トーリー、あるいはロイヤリストとも呼ばれていました)が存在すると考えられており……事実、この革命戦争全般において植民地に住む人々の中でも少なからずのイギリス支持派の存在は大きな焦点ともなってくのですが……あくまで反乱制圧という形で、陸軍投入とそのための支援に海軍は使用されるままだったのです


 一方、植民地側はどうだったのか。

 ボストンを巡る包囲戦の最中、海上の警戒などのためにワシントンは地元にあった漁船(スクーナー)に武装を乗せ小型の武装商船とし、言わば陸軍所属の海上船隊(salt water navy)とも呼べるものを組織しています。

 この他、シャンプレーン湖でも湖上船隊(flesh water navy)が活動していました

 ちなみに後の一七七六年一〇月には、このシャンプレーン湖に展開するイギリス、植民地軍双方の湖上船隊による衝突(バルカー島の戦い、Battle of Valcour Island)が発生。

 イギリス側が勝利したものの、ここに至る戦いまでに双方艦艇を整備するなど時間を必要としたせいで植民地軍側もタイコンデロガ砦に立てこもったところで季節は冬となったためにそれ以上のカナダ方面に展開するイギリス軍の南下を押さえることに成功します。

 当時のアメリカ大陸における交通網として、湖上と河川は重要なものでした。

 ボストン北西、現在のバーモント州、ニュヨーク州、そしてカナダのケベック州に接するシャンプレーン湖は五大湖ほど大きくなくとも南北二百キロ、最大幅二十三キロもある巨大なもので、その南はハドソン川となってニューヨークから大西洋と繋がっている非常に重要なものでした。アメリカ植民地軍も、イギリス軍側も早々に船を建造して湖上船隊同士の戦いが繰り広げられましたが、ここでもアメリカ植民地軍側が敗北しています。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:BattleOfValcourIsland_watercolor.jpg (2023/01/31)


 この他、各植民地でも水上兵力整備への動きが始まっていました。

 開戦劈頭、幾つかの海上での小競り合いの結果をうけマサチューセッツ湾植民地議会は、海上の防衛を目的として植民地海軍の設置を決定します。最終的に一〇隻のスループ艦(十四~十六門の砲を搭載した二本マストの艦艇)の建造が認められ、これが後のマサチューセッツ湾植民地海軍(民兵)となりますし、これらの流れは各植民地群、ペンシルべニア、メリーランド、バージニア、ロードアイランド、そして南北カロライナでも見られ、彼らは独自の海軍民兵(船隊)へ準備なり編成が行われ、内海や淡水湖の警備や沿岸を航行するイギリス側商船の拿捕を目的としていましたが、明らかに十三植民地群の海上兵力は劣勢なままでした。

 ちなみにペンシルベニア植民地は海に面していないじゃないかというのはアメリカの地理に詳しい方なら気がつくでしょうが、ペンシルベニア海軍は大陸会議が置かれたフィラデルフィアに繋がるデラウェア湾からデラウェア川の防衛が目的でした。


 このような中で一七七五年の秋に行われた第二回大陸会議において海上兵力の整備が俎上にあがります。

 ボストンをいくら陸地側で包囲したところで自由に海上を行き来されてはたまらないですし、イギリス本土からカナダのケベックに送り込まれる軍需物資を手に入れたいという意見から、武装商船と海軍の設立を検討しだしたのです。

 ちなみにこの時点で先にもご説明したイギリス航海法は無視され、植民地の港は他国に解放されることになっていたこと、合わせて後にご説明する私掠許可については後程触れさせていただきます。

 もっとも反対意見も当然のごとく大きく、メリーランド代表のサムエル・チョイス(Samuel Chase)は「アメリカ艦隊を作り上げようなどとはまったくもって気狂い沙汰だ」と述べたとされますが、一方、バージニア代表のジョージ・ワイス(George Wythe)は、ローマ人とてカルタゴの戦いで初めて海軍を作り、カルタゴ海軍を打ち破ったではないかと反論したと書かれています

 大陸会議は一〇月一三日に、二隻の武装商船を準備する通達を出し、続けて二隻の準備も通達します。これが〈カボット〉〈アンドリュー・ドリア〉、そして〈コロンバス〉〈アルフレッド〉となる一方で、ジョン・ラングトン(John Langdon)、サイラス・ディーン(Silas Deane)、クリストファー・ガスデン(Christopher Gadsden)の三人による海軍設置のための必要な手立てを講ずるため海軍委員会(Naval Committee)を設置することも通達しました。

 のちに海軍委員会にはジョン・アダムス(John Adams)ら四名が加わり、七名体制となりますがすぐに三名が離脱しているとあります。


ジョン・アダムズ(1735-1826)

言わずと知れた合衆国第二代大統領。絵画は1792~3年の彼と書かれています。

『アメリカ海軍の父』とも書かれている書籍もあります。弁護士でもあり、アメリカ合衆国の憲法制定にも加わり、合衆国創設に置ける思想面、実務面でのリーダーでもあったアメリカ合衆国建国の父(ファウンディング・ファーザーズ)の一人でもあります。ジョージ・ワシントンに注目も浴びることも多いのですが、大陸会議以前からかなり重要な立ち位置だったことが伺いしれます。ただ、資料をよくよくみると、海軍委員会には在籍したものの、後の海洋委員会には在籍していません。

https://en.wikipedia.org/wiki/File:Adamstrumbull.jpg


NH 92866-KN First Foreign Salute to the American Flag

〈アンドリュー・ドリア〉が一七七六年一一月、西インド諸島のセント・ユースタティウスにあるオランダのオラニエ要塞から礼砲を受けた時の絵画です。これがアメリカにとって最初に受けた儀礼行為〈ファースト・サリュート〉とされています。船尾とフォアマストの頂上に掲げられた大陸会議の旗、「グランドユニオン」旗が描かれています。

この旗を巡るお話は後ほど語ることとしましょう。

https://www.history.navy.mil/content/history/nhhc/our-collections/photography/numerical-list-of-images/nhhc-series/nh-series/NH-92000/NH-92866-KN.html


 これら四隻の船は商船を武装化した、言わば現在でいう武装商船が大陸海軍最初の艦艇とも言えます。当時の商船は海賊や、あるいは後にご説明する私掠船からの自衛のため、ある程度の武装をしていましたから、戦列艦でもない限りその境目は曖昧なものだったのです。

 続いて十一月に大陸海軍、そして大陸海兵隊(Continental Marine)の設置が正式に決定します。

 同年一二月には海軍委員会は十三植民地群からそれぞれ代表1人が選出される海洋委員会(Marine Committee)に吸収された形となりました。

 海洋委員会は軍艦の建造などの許可を出す一方、艦隊・艦への命令、将校の任命などを行うものとされ、事実上の海軍省、そのひな形とも言えそうです。

 ここで階級と給与も設定され、大陸軍と準ずるものとされ、提督は准将、その他、艦長、海尉艦長、海尉がそれぞれイギリス王立海軍を模して準備されました。

 四〇門以上の大砲を搭載する船は艦長、二〇~四〇門は海尉艦長、一〇門から二〇門までは指揮権のある海尉(コマンディング・ルテナント)と定められ、合わせて人員構成も定まります。

 大陸海軍の陣容の多くは商船の船長かあるいは商船隊を率いた者達が加わっている形で、いささか縁故人事もあったのは事実のようですが、それでも経験豊富な人員が大陸会議側に馳せ参じました。

 大陸海軍の指揮官として、エセック・ホプキンス(Esek Hopkins)が任命され提督として就任しました。ただし、提督といってもAdmiralではなくCommodore、現在では代将と呼ばれる立場ではあります。

 ちなみにその部下としてホプキンス提督が乗るUSS〈アルフレッド〉の艦長は、ダドリー・サルトンストール(Dudley Saltonstall)、この艦の一等海尉(First Lieutenant、艦長次席、副官の立場にある士官)としてジョン・ポール・ジョーンズ(John Paul Jones)が乗り組みました。まあ、ただ選ばれた上級指揮官はだいたい大陸会議参加者の縁故だったのも事実ですが、これをもって能力が足りないという指摘もあながち言い過ぎというか、当時の議会に加わるメンバーはそれぞれの植民地の名士であり、経済的に裕福でしたし、裕福であれば当然海運関係にも携わっていたので、縁故が幅をきかせたとしても無理もない面もあります。

 ついで設立された大陸海兵隊指揮官はサミュエル・ニコラス(Samuel Nicholas)が海兵隊大佐(Captain of Marines)として就任し、ここにまがりなりにもアメリカ大陸海軍・大陸海兵隊は編制されることになりました。


ホプキンス提督の肖像画です。下部には「Commodore Hopkins」の文字があります。

https://en.wikipedia.org/wiki/Esek_Hopkins#/media/File:EsekHopkins.jpg (2023/01/29)


 大陸海軍の制服は一七七六年九月五日に定められており「キャプテン-青布、赤ラペル、スラッシュカフ、スタンドカラー、平黄ボタン、青ブリーチズ、赤ウエストコート、細いレース付き。……」と色々細かい規定があったのですが、どうも現場には好まれておらず、後にインナーが白に変わった、とあります。上の図はその経緯を記したイラストです。

https://www.history.navy.mil/content/history/nhhc/browse-by-topic/heritage/uniforms-and-personal-equipment/uniforms-1776-1783/_jcr_content/body/image.img.jpg/1485279993170.jpg

(2023/01/24)


 ちなみに大陸海軍ですが大陸海兵隊法令では二個大隊編制とされていましたが実際には五個中隊による一個大隊のみで、改めてニコラス海兵隊大佐による徴募が行われ、四個中隊が編成されたと記述があります。


 ……さて、海兵隊とは何のためにあるのか。この時代を舞台としたホーンブロワーなどを初めてとする海洋時代小説か、あるいは〈マスター・アンド・コマンダー(Master and Commander)〉(2003年)といった映像作品を見た方であればイメージもわきやすいかもしれません。

 当時の海兵隊の役目は、艦に乗り組み艦内の秩序維持及び接弦戦闘時の戦闘要員などの武装兵であり、当時の海軍艦艇には欠かせない要員だったのです。


 時代が下がってナポレオン戦争の時の、有名な〈トラファルガー海戦〉で、ホレイショ・ネルソン(Horatio Nelson)を描いた絵画、「The Fall of Nelson, Battle of Trafalgar」です。画の右中央で倒れこんでいるネルソン提督がいて、彼を起こそうとしている赤い上着が、英国海兵隊員です。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:The_Fall_of_Nelson,_Battle_of_Trafalgar,_21_October_1805_RMG_BHC0552.tiff (2023/01/24)


 ちなみに南北戦争当時の大陸海兵隊の服装は切手で描かれているように、緑のコートに白いフェイシング(襟、カフス、コート裏地)を付け、当時の接舷戦闘時で良く使われた片手刃(カットラス)の斬撃から首筋を守るために、革製の高い襟を付けており、これが海兵隊の異名でもある「レザーネック」の由来ともなりました。

 ただ、外套が緑色になったのはそれほど深い理由はなく、当時のフィラデルフィアで緑色の生地が余っていたからだという記述もあるのですが、定かではありません。

https://en.wikipedia.org/wiki/File:Military_Uniforms_Continental_Marines_10c_1975_issue_U.S._stamp.jpg (2023/01/24)


 大陸海軍、大陸海兵隊の最初の(本格的な艦隊行動を伴う)戦いは一七七六年三月のナッソー襲撃(ナッソーの戦い, Battle of Nassauとも)でした。

 大陸会議において当時、緊急を要する問題は軍事行動に必要な様々な軍需物資の掌握でした。購入するための予算もすぐに手当がつくわけではありませんので、当座、アメリカ本土にある軍需品を手に入れようと画策します。

 折良くイギリス側がバージニアにあった倉庫からバハマへ軍需物資を運び出したことを知った大陸会議は、編制されたばかりの大陸海軍艦隊を差し向けることを決定しました。

 ただこれはどうも記述が一定しておらず、当初、カロライナ方面など沿岸警備を命ぜられたホプキンス提督の独断だったのか、大陸会議の密命だったのかはっきりとしません。これは後に騒動になりますが、後程語ると致しましょう。

 ともかく一七七六年の二月にフィラデルフィアを出港した大陸海軍四隻の艦艇は、途中、チェサピークで四隻の小型艦と合流。途中、一隻が故障により帰投するものの、残り七隻でバハマにある島、ナッソーへと向かい、海兵隊二〇〇名と水兵五〇名を上陸させます。

 これがアメリカにとっての最初の水陸両用作戦でした。彼らは損害なく上陸し、ナッソーにある砦の一つを制圧、無血入場を果たします。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Battle_of_Nassau.jpg (2023/01/24)

 と、ここまで書くとナッソー襲撃は大成功、となるのですが実態をよくよく読むとそうではないことがわかります。実はナッソーに保管されていた火薬の大半は、大陸海軍襲撃を知った現地指揮官の差配でまんまとその大半、二〇〇バレルの火薬が収まった樽、一六二個が夜にイギリス海軍の船で運び出され、大陸海軍艦隊が手に入れたのは積み残された三八個のみというのが実情でした。

 お粗末なことに、大陸海軍の艦艇は揃ってナッソーの港を封鎖もせずに艦艇を六海里ほど離れた沖合にあるハノーバー湾に錨泊していたためでした。

 ただそれでも無血で火薬を獲得したのは確かだったので成果は上げた、と見るべきでしょうか。その後、乗組員の中で疾病が蔓延したようで、苦しみながら帰途につくことになります。その間、二隻のイギリス船舶を拿捕することにも成功しました。

 当時を舞台にした海洋小説を読んだ方はご存じかもしれませんが、そうなるとこの拿捕船を操舵するための人員も乗組員から割かねばなりませんから、より一層、乗組員は払底したようです。

 大陸海軍艦隊は北上を重ね、チェサピークやフィラデルフィアではなく、ニューイングランドの、ロードアイランドにあるプロビデンスへと向かう中、一七七六年四月六日、ロードアイランド沖合にあるブロック島南東沖合でイギリス王立海軍のフリゲート艦、HMS〈グラスゴー〉に遭遇します。

 これがイギリスとアメリカの初の本格的海戦、ブロック島沖の海戦(Battle of Block Island)となりました。

 もっとも、戦いはHMS〈グラスゴー〉側に主導権があり、大陸海軍はその練度の低さもあいまって終始、ドタバタとした戦いぶりだったと記されています。……結果的にHMS〈グラスゴー〉を取り逃した大陸海軍側の損害ばかりが目立つ結果となったのがこの、革命戦争劈頭の戦いでした。


 この後の大陸海軍の戦いを記述したいところなのですが、満足な艦隊行動は革命戦争前半はこれっきりとなります。

  あとはロードアイランドのプロビデンス港など、それぞれの港に封じ込められた形となり、以後は運良く突破出来た単艦での行動ばかりとなるのでした。


 さて、ナッソー襲撃から一連の艦隊行動に参加した艦艇は商船を改造した、言わば武装商船だったわけですが、海軍委員会は大陸海軍編制直後から、武装商船ではなく新造艦艇……一三隻の各種フリゲート、三二門(五隻)、二八門(五隻)、二四門(三隻)をそれぞれ新造するよう承認していました。

 かくして大陸海軍の水上兵力はかくして創設されることになる……のですが、実のところを言えば、十三隻のフリゲートの行く末は散々なものでした。

 建造先であるドックがあったニューヨーク、フィラデルフィア、サウスカロライナのチャールストンはそれぞれイギリス軍に占領されたため建造中の艦艇が完成を見ずに失われました。それでも八隻の船の建造が各地で行われ、木材の不足や乗組員の不足に苦しみつつも完成し出撃するのですが、海に出られたフリゲート艦の全てがイギリス海軍の手によって大半が拿捕されるか破壊されてしまったのもまだ現実でした。 


 NHHCにある、大陸海軍艦艇のリスト(の抜粋)です。大半が一七八〇年までには沈められるか拿捕されているかがわかります。 

すべてではありませんが、NHHCに記載されている大陸海軍運用艦艇(の戦没)リストです。その多くが一七七七前後に撃沈されたか、降伏・拿捕されていることがわかります。

https://www.history.navy.mil/research/library/online-reading-room/title-list-alphabetically/v/vessels-of-the-continental-navy.html (2023/01/31)


 もともと数的にも練度的にもイギリス王立海軍側が優勢だったのが革命戦争での前半で、その中で大陸海軍は総じて苦しい戦いを繰り広げていた以上こうなるのも致し方ないとは言えそうです。


 また問題も色々とありました。

 ナッソー襲撃後の結果、大陸会議ではホプキンス提督を巡る二つの醜聞が取り沙汰されることになります。一つは、ナッソー襲撃を巡る命令違反でした。そもそも最初の命令書ではバージニア、そしてカロライナ周辺でイギリス艦隊との戦闘を命ぜられたのですが、その命令書では「彼ら(イギリス艦隊)が(大陸海軍より)劣勢であると判断した場合(中略)そこで見つけることができるすべての敵の海軍力を探し出し、攻撃するか奪うか破壊せよ」と書かれたあと、不測の事態にかぎり、「貴官の最善の判断でアメリカの大義に最も役立つと思われるコースに進み、あなたの力の及ぶ限りの手段で敵を苦しめよ」という内容でした。

 ホプキンスの判断は、最後の一文「最善の判断」で、ナッソー襲撃を行うことを定めたというのが本当のところだったのです。

 結果的には最後の海戦で(案の定)ミソを付けた形となったものの、襲撃そのものは成功し、大陸会議議長であるジョン・ハンコック(John Hancock)は彼を賞賛するのですが、大陸会議のメンバーらは命令を無視して独自の艦隊行動を行ったホプキンスの指揮に疑問符をつけます。

 さらにはブロック島沖の海戦でHMS〈グラスゴー〉を取り逃した指揮についても問題視していましたし、それ以上に度重なる戦意不足、命令違反が大陸会議のメンバーの中では不満だったと見られます。ただホプキンスには別の意見もあり、配下の艦長に問題があるとされ、幾人かの艦長が更迭されてもいます。

 そして二つ目の問題がより深刻でした。このナッソー襲撃の最中に拿捕したイギリス軍艦に乗っていた乗組員を捕虜とし虐待したという内部告発が行われたのでした。この問題もふくめ消極的で行動しないなどホプキンスに対して人望が損なわれ、乗組員の士官らが解任要求の嘆願書を出すほどの有様でした。

 大陸会議はこの問題をうけて、内部告発者保護法を制定することにもなるのですが、これにの問題を受けたためかホプキンス提督は一七七八年一月に離任することになります

 ホプキンス提督の代わりは、〈アルフレッド〉の艦長であるサルトンストールがついたものの、彼もまた一七七九年八月、マサチューセッツ植民地海軍を指揮して行ったメイン植民地へのプレスコット遠征で参加した艦艇十九隻・輸送船二五隻すべてが撃沈あるいは拿捕される大損害を出した責任を問われて大陸海軍を辞めさせられています(ただ、これをもって無能とは言い難く、彼は後に私掠船に乗って色々活躍しているのも事実です)。

 このように大陸海軍の動きは大陸会議の思惑とは別に艱難辛苦、色々とままならないのは事実だと言ってもいいでしょう。

 そんな活動として低調だった大陸海軍とは裏腹に、活発的な動きをしていたのは何度か記述している私掠船だったのです。