幕末遠国奉行の日記―御庭番川村修就の生涯 (中公新書) | |
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江戸時代末期、辣腕高級官僚の記録
徳川吉宗の時代に発足した御庭番衆。形骸化した伊賀衆、甲賀衆に代わって将軍直轄の調査を担当していたが、この職もまた形を変えていくことになり次第に幕府要職につくものも多くなっていく。
十数家により世襲であるこの制度は幾度かの分家、廃嫡を経て幕末期には二十二家で形成されていた。その中の一つに、分家ながらも重要な地位についた川村家がいた。当時の当主は川村修就(ながたか)。
その辣腕ぶりによって周囲の耳目を引き当時の水野忠邦に目をつけられ抜擢されていく。そして彼は諸外国からの情勢不安と幕府の財政改善のために天領(幕府直轄地)とされた新潟を管理するはじめての遠国奉行(おんくにぶぎょう)として派遣されることになる。その彼が前後に残した日記から探る、江戸幕府末期の高級旗本の暮らしぶり、行政とは?
以前に某所でその話を聞いて古本で手に入れていたのをようやく読みました。
いやね、面白いですよ。「風雲児たち」の副読本として読めば面白いかな?
川村修就(とその父親)が書き残した日記や備忘録などから当時の生活などがうかがいしれます。御庭番衆トップとして一族郎党および他の御庭番衆若手に手ほどきする一方、新潟での奉行所設置に向けての人材のとりまとめ、荷物の手配などなど幕府からの予算を分配したりとか、そんな中でも幕府が管理する大砲などの管理などを行っていたり(彼は自前で射撃訓練場を作るほど砲術も巧みだったのです)。
新潟の奉行職も水野忠邦の意向を受けて、新潟を植民地化させないために防衛と治安維持が最優先のため大砲などをそろえにかかります。
それだけではなく行政手腕も素晴らしく、また個人についても清廉な口なのか不正・汚職・無能な部下を退けたり、奉行所やそこに務める者たちの家などの建設にあたっては色々地元の商人たちが暗躍しようとする中、早々と公開入札(!)で業者を決めて、細やかに監督。期日と予算を守らせたりする巧みな手腕と、その一方で港町ということもあって色街などの処理をあれこれと一か所に固める、物価の不法な値上げを監視するなど様々な辣腕ぶりをみせていることが明らかになります。
その後彼は、大阪、長崎と遠国奉行を歴任しますが、彼は幕府の先行きが短いことを知ってしまったのか、あれだけ熱心だった砲術も途中でやめてしまうだけでなく、自分の部下に「もう江戸はダメだ、地元で畑を買って暮らすといい」と手当を渡して別れてしまうなど複雑な面を見せていたりもしています。
(その目先の良さは、幕府末期に対して自分の屋敷が接収されることを見越して、手早く新たなこじんまりとした家を用意するなど周到なものでした)
その後、勝海舟が江戸幕府でも有数の人材だったと後年伝えていますからなかなかの人物だったのでしょう。で、結構なメモ魔だったらしくかなりの書類が今も子孫に残っており、その中の日記を元に作られたのがこの本というわけです。
いやー、でも修就の父親の日記も面白いですよ。不出来な本家の息子の後始末に奔走したり(しまいには養子縁組で他のところからつれてきてその不出来な息子を早々と隠居させてしまったりとか)、貧乏なので定期的に借金していたり、それでも優秀なのか着々と出世する一方、息子の修就をあちこちと一人旅させて御庭番衆として教育させていたりなどなど。
幕府時代の官僚生活がどういうものかを知るにもいい資料かも。面白かったです。
読了記録として。
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