2010年12月22日水曜日

正しさだけでは解決しないことがある。

遅まきながら、都条例のことについてつらつら書いてたんだけど...あれだ、「ネギま」の赤松健氏のTwitterが自分の意見とも近いので引用します。

(しかし赤松先生、最近Jコミといい、露出が多いんですが、是非ネギまも今が面白くなりつつありますので...本業もお忘れなく...と呟いてみたり)

【16日日中分追加】都条例可決を受けて、赤松健先生のツイート

赤松健先生の「論理」と「感情」の話。(表現規制関連)

自分も、「表現の自由」は維持すべきだが、「表現の自由」を理解するのには分別も必要という立場で、かつ現状の状態が手放しでよいとは思えない立場です。

コンビニ売りの18禁にかかりそうなコミックがシールで封をされているのに、そういう雑誌に載ってもおかしくない作品が掲載されている雑誌が、特段封もされていないのに本屋に陳列されているのに違和感を感じています。無論本屋によってはシュリンク(透明ビニールのカバー)をつけていますが、あのシュリンクは本屋の負担であることも忘れてはいけません。
そういうわけで自主規制の公示(レーティング化)、ゾーニングの強化が納得させられるラインじゃないかと思っています。現在本屋の多くがコミックにシュリンクをつけていますが、18禁コミックは、出版社サイドでのシュリンクも必要じゃないかと思っています。

規制反対派の方々の多くは「表現の自由」をなんらかの神託のように扱っていますが、原理原則だけで通るのならこの世の中、さほど苦労はしないわけで現実のオトシドコロを考えないといけない場合もあります。ネゴシェーション(交渉術)みたいなものです。
正しさではなく、情感と権威と実力も必要なときがあるわけで。そういうわけで赤松先生の意見にうなづけるところもあるわけです。確かに一般人受けする芸能人が下ネタ言っても許されるわけです。福山雅治を見てくださいよ!(w あんなイケメンがラジオで下ネタ言ってるわけですよ。でも許される。あげくに普段ああいうイケメン見るとすぐ「リア充が...」と口走るルサンチマン全開のオタですから「福山だからな」でスルーしているときもある。そんなもんです。人間なんて。

こういう状況は規制反対派にとって戦略的劣勢であることを示しています。アニメイベント開催に対しての協力拒否などの対応はいわば単なる戦術勝利なのでこの成果に拘泥することなく、どうやって最終的勝利(なにをもって勝利とするかもありますが)を求めていくかを考えてみてほしいところです>関係方々。

あとは、もしこれを読んでいる方が規制反対派であれば、脳内ロールプレイで規制派の方々の言い分を考えて、ディベートじみたことを考えてみてもいいかもしれません。そうすることで、「敵」ではなく「相手」として見えてくることもあるはずです。

都条例の騒ぎからしばらくたって、相手側の言い分の研究なども始まるでしょう。最適な手を打ちつつ、「決して相手の逃げ道をふさがない」戦い方も必要なんじゃないかな。
欲しいのは反対派に対する殲滅ですか? 自分はあまり望みません。正しいということが免罪符にならないわけです。その正しさは誰にとっての正しさですか。自分だけの正しさなのか。そこらへんも考えてみてもいいかもしれません。

表現の自由、思想の自由は近代民主主義における前提の一つですが、過激な言い分ですが所詮はシステム、決め事、ルール「でしかない」ということも踏まえておく必要があるでしょう。それが世界開闢以来、絶対普遍の定理ではないわけですから。
ルールなんて変わるものです。古代で常識だった奴隷制度が無くなっていったように。それは啓蒙と見たいのですが、単なるコストの問題だったのかもしれないと思うときがあります。

というわけでメモとして。






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