2010年6月1日火曜日

「まおゆう」のあの丘の向こう側とは...メモとして。

さて、ちょっとこれから先は「まおゆう」が指し示した後の話。
その前のエントリ>>「光と闇。「ルワンダ中央銀行総裁日記」

単なる小説だからそうガチに考えることはねーよ。という突っ込みを自らしておいて話を続けましょう。


物語を読みきったあと、うんうんよかったねーと思いながら数日たって物語世界を考えると「いやまて」ととまってしまいした。「まおゆう」物語世界で今後あの国々がどうなっていくのか、現実世界でおきた歴史を考えるとあまりいい光景を思い描けなかったからです。

国家がまとまるのは外敵の存在です。何らかのわかりやすい「敵」が必要なのです。「敵」というのが不穏当であれば「目標」でもかいません。なんらかの形でこの「敵」あるいは「目標」に折り合いがついたとき、ひと時の平穏がもたらされます。

一世代は大丈夫。二世代目は持てばなんとか。三代目持ったら歴史的偉業といわざるをえません。
(忘れてはいけませんが、戦前日本と戦後日本が分断していると考えればまだ一世代がようやく終わろうとしているに過ぎていないんですよ!)
あの物語世界はうまくまとまりましたけど、現実的には次に商人のアンバランスさとかが出てきそうだなぁとか思うわけですよ。ま、そういう想像ができるほどにいい物語だったわけですが。(以前、テレメア戦記でも触れましたが)

とはいえ、だからといって丘を目指すことが無為なのか、意味がないのか、とかいうとそんなつもりは毛頭ないのです。だって、たどり着いた丘の向こうは日常なんですよ。日常になったからといって丘の向こう側が意味がなくなったわけではないし、目指したことが無駄であったとは限りません。

自分が「まおゆう」で見事だと感じ入ったのは、人と魔族双方が並立できるwin-winの関係を希望をもって築きえた。新たな世界と価値観の到来を犠牲を生じたものの作りえたという点です。そしてそこには魔王と勇者という二つの特異点だけが成したのではないという展開にも。

無論あの世界の中でも不遇な人は生じるでしょう。もうそれは致し方ない話ですが、そうであっても、そうしなかったよりは100倍はましな世界を提示できたのですから。

比較として不適当だとは思いますが銀河英雄伝説との対比として書いてみましょう。
銀英伝において五巻以降の物語後半は新帝国にとって対テロ、同盟残党掃討でしかないわけです。ラインハルトの個人的意固地の問題からイゼルローン攻防戦があり提督や人員を失うはめになったものの、あれも本来であれば人的交流を断ち切る長期戦を選んでおけばいいだけの話ですから(とヒルダが指摘するのも当然ですよね)。
ラインハルトはまさしく帝国の否定から始まり新たな帝国を作りえましたが、そこに恒久的な新しいビジョンはなかったわけです。旧帝国貴族の財産でしばらく国庫は安泰でしょうがその後はどうなるでしょうか。無論公平な税制に尽くすでしょうが、その一方でやはり貴族階級は形を変えて残っていくわけですから貴族と平民との差は生じていくでしょう。
またヤンがユリアンを通して残すことができた民主主義という理念は確かに帝国を立憲君主制に導くでしょうが、広大な帝国領域を果たして立憲君主制度で成立できるでしょうか。そこに国家に属する意識が存在しえるものにならなければ結局、地方単位でまとめる領制となることは目に見えてます(たしか軍制度改革について触れた話で軍管区制度のメリットデメリットにメックリンガーあたりが触れていたくだりがあったような)。

銀河英雄伝説という物語世界においては異文化との衝突ではなくあくまで同一文化でかつイデオロギー闘争の側面が強くでていたため、ああいう落としどころしかなかったのは重々承知しています。

「まおゆう」では、若干異なり異文化との衝突なわけです。人と魔族という異なる文化圏が成立できるという枠組みを作りえたわけです。そこでああいう物語として見事な風呂敷のたたみっぷりを読んでいい物語だと感心しているわけで、なにも現実がどうこうとかいうのはないんですが...あれは人類史の中世から近代に対する歩みをギュッと凝縮したものですから、人類が歩んできた異文化衝突の解消方法の一例なわけですよ。
(現実社会が正しい道筋を歩んできたわけではない。という指摘はまぁ、そりゃそうだろうというしかほかなりませんが、じゃ人間が過ちを犯さないで何かを成し遂げられるわけでもあるまいにと自分は思いますけどね)

ま、そういうわけでつらつらとメモとして。さて、ログ・ホライズンもいったんお休みとのことですから「まおゆう」若干熱が下がってきたからもう一度、ここでニュートラルに読み直そうかなぁ...。


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