2023年2月11日土曜日

合衆国海軍通史 私家概要 1-2 アメリカ、その歴史について(3)

  十七世紀末、一六八八年から北米大陸を舞台にした英仏の争いが本格化していくことになります。ウィリアム王戦争(一六八八~八九年)、アン王女戦争(一七〇二~一七一三年)、ジョージ王戦争(一七四四~一七四八年)という名前は日本ではほとんど知る方もいらっしゃらないでしょうが、北米大陸を舞台にした戦争が繰り広げられていました。

 この他、先住民族との衝突戦争もあったのですが割愛しても良いでしょう。


 一七五〇年あたりのアメリカ大陸における欧州諸国の勢力図は以下の通りでした。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Nouvelle-France_map-en.svg (2023/1/16)


 実はこの時期の北米大陸を大きく手中に収めていたのはイギリスではなく、フランス北米領ヌーベル・フランス、だったのです。フランスはアメリカ大陸北部のセントローレンス湾へと流れ込むセントローレンス川を遡上し五大湖に到達。さらにそこからオハイオ川を下ることで北米大陸を縦断し、メキシコ湾にまで繋がるミシシッピ川流域一帯の占有を宣言していました。

 もっとも英国植民地ほど植民は進まず、広大な土地をごく僅かな植民とネイティブ・アメリカンの各部族たちが住むだけだったのが実情のようで、記録には一七五〇年あたりで人口一〇万人弱と少ないものでしたが、英国植民地群にとっては人口増加のために西方へ拡大し続ける一方、必然と衝突する道をたどることになります。

 これがフレンチ=インディアン戦争(一七五四-一七六三年)という戦いとなります。

 イギリス軍及び植民地の民兵軍はヌーベル・フランス領内の五大湖周辺のインディアン(先住民族)とも衝突を重ね……これは戦後も継続しますが……この一連の戦いを表す名前として、フレンチ=インディアン戦争とアメリカ国内で呼称されることになったわけです(「フレンチ・アンド・インディアン戦争」とも呼ばれることもあります)。

 敵はフランスとインディアン(ネイティブ・アメリカン)だったと言いたいわけですが、当時英国側に立った先住民族の部族もいたわけで、正しい呼び方かと言われると疑問の余地はあるのですが……。

 ただこの時期、世界史というスケールでみればイギリスとフランスはそれぞれ世界の覇権を握るための、一六八八年からナポレオン戦争が終結する一八一五年まで続く第二次百年戦争の真っ只中で、このフレンチ=インディアン戦争は、世界各地の領土、植民地を巡って衝突する最初の『世界大戦』でもある七年戦争の始まりを告げるものでした。

 ……実は先のウィリアム王戦争から続く戦いをまとめて北米植民地戦争と呼び、英語ではFrench and Indian Warsと呼ぶ資料もあって、こちらではWarsとなっているので区別が必要です。

 七年戦争では欧州大陸ではプロイセンとオーストリアの戦いにイギリスがプロイセンに、フランスがオーストリアについて戦い、ロシアなども加担。世界に散らばる植民地でそれぞれ戦いが繰り広げられることになったのですが、北米大陸の戦いも重要なものでした。

 これはこの後のアメリカを形作る戦いへの序曲のようなものだったのです。

 もっと重要な話をすれば、この戦いにはバージニア植民地で生まれたある若き士官が戦いに加わり、フレンチ=インディアン戦争の最初の戦いで指揮を行っていました。

 その若き士官の名はジョージ・ワシントン(George Washington)と言うのですが、彼が歴史の表舞台に出てくるのはもう少し後になります。


 北米大陸で繰り広げられたフレンチ=インディアン戦争はフランスが敗北したことで英国によりヌーベル・フランス中央~北部を奪われ、ヌーベル・フランス領のメキシコ湾に接する南部は維持することが難しくなったためスペインへ引き渡されます(この他、フロリダもイギリスの手に落ちます)。


上の濃い部分がイギリス(植民地)、ミシシッピ川(中央)以西のヌーベル・フランス領がイギリス獲得領となり、フロリダからメキシコ湾周辺がスペイン、後にイギリス領となります。このように北アメリカ大陸の半分をイギリスが手中に収めたのが一七六三年前後の話となります。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:NorthAmerica1762-83.png (2023/01/16)


 さて、七年戦争のきっかけでもある領土も増えて万々歳、と行かないのが世の定めというか、この勝利が必然とアメリカ大陸の次なる騒乱を呼ぶことになります。


 この結果、アメリカ革命戦争へと至る道が作られた、と言うべきでしょうか。


 まずアメリカ大陸東の十三植民地群は増加する移民者の入植先として西方に狙いを定めていました。ヌーベル・フランスの瓦解後、自分たちの新たな入植地(フロンティア)として見るのは無理もない話でした。

 一方、イギリス本国は七年戦争で実質の勝利を得た一方で、世界帝国を維持するための経費に喘ぎ始めます。七年戦争は終わってもフランスとの衝突は続き、戦費が必要になっていましたので、出来ればアメリカ大陸の統治をより本国側へと傾けることで税収による歳入増加を求めだしました。

 あわせて旧ヌーベル・フランス領の統治も含め、先住民族対策も頭の痛い問題で、西方への発展は漸進的に行おうと考えていて、ここに北米十三植民地群との対立がおきることになったのでした。

 百年以上続いた植民地開拓時代、基本的に十三植民地群は各々の自治によって行われていたのですが、英国政府は彼らに対して権利の前に義務を求めることになります。


 すなわち重税の始まりでした。


 これらの動きは七年戦争前から既にあって一七三三年に定められた糖蜜法がありました。サトウキビから砂糖を精製する際に生じる糖蜜は、ラム種の原料ともなるものです。

 糖蜜法では、英国以外からのラム酒の輸入禁止と糖蜜の輸入に高い関税が課されるもので、なぜこうなるのかと言えば、すべては当時大西洋で繰り広げられていた三角貿易が理由です。

 一般的な三角貿易では英国はラム酒や繊維製品、武器などを西アフリカに送り、西アフリカは労働力となる黒人を西インド諸島、北米大陸へと送り、西インド諸島・北米大陸は砂糖や綿花を欧州へと送る形ですが、その逆もありました(下図参照)。

 ちなみに北米大陸は農産物や魚介類を西インド諸島へ、西インド諸島は砂糖や糖蜜を英国へ、英国は工業製品を北米大陸や西インド諸島へ送るという一連の流れもありました。

 三角貿易は単純なモデル化されたイメージのようなもので、一隻の商船が大西洋をぐるりと回る、と想像しがちですが、実際のところそれぞれの航路別に専用の船、船団が航行されていたケースも多かったようです。ただ、一隻で行う場合、概ね一周するのに一年を要したようです。

 で、ここでラム酒が絡んできます。当時、北米大陸へ送り込まれる黒人奴隷への支払いはラム酒で行われており、この製造のためには糖蜜が必要だったわけですが、西インド諸島からの砂糖の輸入に関税がかかると当然ラム酒の製造コストは跳ね上がるし、英国からしか購入できない状況もありながら、他国(フランス植民地などから)ラム酒の輸入ができないことは、十三植民地群にとってかなりの負担となります。

 輪をかけて面倒だったのはイギリスの輸出入に用いる船舶は、イギリスあるいはイギリス植民地で作られた船であること、さらにはヨーロッパ行の船便でもイギリス本国を経由するなどを定めた航海法も一六五一年から存在しており、英国による植民地への負担は増していく一方だったのです。なので密輸もかなり横行していた模様です。


従来よく言われる「三角貿易」の図です。

① イギリス(欧州)は、西アフリカに対してラム酒や繊維製品や工業製品、武器を送る。

② 西アフリカは西インド諸島・アメリカに黒人奴隷を送る。

③ アメリカはイギリス(欧州)に砂糖、タバコ、綿花を送る。


https://en.wikipedia.org/wiki/Triangular_trade#/media/File:Triangle_trade2.png


昨今、北米ニューイングランドを頂点とした三角貿易もあった、とされています。

① ニューイングランドからラム酒や加工品が西アフリカへ送られる。

② 西アフリカからは黒人奴隷が送られる。

③ 西インド諸島からは砂糖(糖蜜)が送られる。

という形でした(ただ、限定的だったとされる意見もあるようです)

https://en.wikipedia.org/wiki/Triangular_trade#/media/File:Triangular_trade.jpg


 ですが、この航海法は後の合衆国海軍の遠い恩恵の一つともなります。


 先にもご説明したように当時木造船を建造するために必要な良質な木材の入手が欧州では難しくなりつつあったのです。何しろ大洋を航海する船は大型化する一方、なのに必要なナラの木を船に使うためには、オーク材(ヨーロッパナラ)ですが、この育成は二〇年~三〇年、良質さを求めるなら五〇年は育成に必要なものだったのです。

 そのため、スペインのフェリペ二世は一五七四年にに「造船及び森林保護監督官(la superintendente de construcción naval y fomento forestal)」という役職まで作って、造船業の並行して森林の伐採などを管理する責任者を準備しているほどなのです。

 その点、アメリカ大陸は入植されたばかりで手つかずの良質な木材が豊富にあったことも大きかったのでしょう。

 アメリカ国内で入植島嶼から造船が行われていたと資料にありますが、本格的に造船業が広まるのは一六四〇年代あたりからだったようで、英国から船大工を呼び寄せ建造が始まると、最初は十三植民地群の沿岸を航行するところからはじまり、中小型の貨物船建造が行われるようになると次第に建造能力が向上していったようです。

 マサチューセッツを中心に造林業が盛んで、杉、楓、白松、スプルース、オークといった木材が豊富にあったことから建造費は本国の半分以下だったようで、このことも追い風となりました。

植民地時代のバージニア州における建造風景です。恐らく初期のものを絵にしたのでしょう。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Early_Ship_Yard.jpg (2023/01/20)


 マサチューセッツ植民地の都市、ボストンでは数多くの造船所が造られていたことが当時の地図からもわかります。


植民地時代、革命戦争直前の一七七五年、ボストンの地図です。

当時のボストンの中心部であったシューマット半島が都市となっており本土とは細い地峡と繋がっています。東部一帯に多くの突堤があり造船業が盛んだったことが伺いしれます。

現在のボストン市街は埋め立てが進み、当時の面影はまったくありません。興味がある方は地図でご確認されると良いでしょう。

https://en.wikipedia.org/wiki/File:Boston,_1775bsmall1.png 2023/01/19


 のちに一六九〇年には英国によって軍艦の発注も行われ、ニューハンプシャーのニューキャッスルにあるホランド社が受注した五〇門の大砲を装備した戦列艦、四等軍艦〈フォークランド〉の建造が行われています。

 もっとも安価な造船業の活況のために、マサチューセッツ周辺の木材資源は払底していったと記録にもありますが、革命戦争前夜、イギリス全体で建造される船腹量の半分がなんとマサチューセッツを中心とするニューイングランド全体で建造されていたとあります。

 後の大陸海軍、そして後の合衆国海軍に必要な艦艇の提供に支障がなかったことはアメリカにとっては幸運なことでした。

 ……このようにイギリス植民地群での経済発展にあわせて造船業が勃興していくきっかけの一つがこの航海法でもあったわけで、この事は後の大陸海軍、そして海軍創設に大きく関わっていくことになります。


 さて話を戻して、英国本土政府の北米植民地に対する政策についてご説明すると、戦争後の重税政策は矢継ぎ早でした。

 一七六三年に糖蜜法に代わって砂糖法が成立します。ラム酒の輸入が禁じられ、糖蜜への関税は引き下げられるのですが、反対に砂糖の関税は引き上げられます。合わせて嗜好品(ワイン、絹、コーヒーなど)の輸入にも関税がかかることになりました。

 糖蜜法の時代から密輸取り締まりは強力に行われていたのですが、砂糖法でもより糖蜜への関税を下げることで密輸の需要を減らそうという意味もありました。

 続いて一七六四年には印紙税法が制定されようとしていました。この法案では植民地群で印刷されるありとあらゆるモノ――それこそ、法的な書類から、新聞広告、パンフレットに至るまで――に対して印紙を購入し、貼る必要があるとされました。印紙は税関吏が徴収し、その収益は植民地の「防衛、保護、および安全保障」のために使われるもの、と定められます

 このような関税や重税がのしかかることに対して植民地側の商人たちを中心に反発します。彼らはこの課税が「代表無き課税」であると訴え、暴力的な反対行動まで発生。貿易へのボイコットも辞さないことを恐れた英国側商人も同調。結果として印紙税法は廃止され、砂糖法を修正するに至ります。

 つづけて十三植民地からは先の「代表無き課税」についてイギリス本土政府(議会)からの課税は無効であるという意見が上がり始めます。


 「代表無き課税」とはなんぞや、と言われると、もともとイギリスでは「人民が自ら選出した代議士の承認無しに政府が人民を課税することは不当である」という不文律がありました。いわゆる一三世紀から続く大憲章(マグナカルタ)にも記されている伝統でもあったわけです。

 さらに植民地の入植は英国王からの免許状をもって行われており、議会の設置も同様である以上、植民地の代表は英国王である。にも関わらず植民地議会が英国本土の法案を可決する権利を有しない現状では、イギリス議会もまた植民地に対する課税をめぐる法案を可決する権利を持ち得ないのではないか――代表権を植民地に認めるか否か? そういう理屈でした。

 まぁわかりやすく言うならば、自治政府もあり裁判所もある植民地の頭ごなしに増税などを決める権利はイギリス議会にはないし、植民地からの代表が議会に存在するわけでもない。そもそも我々はイギリス本国と並列なんだろう? というのが意見の本質でした。

 棄民のように新大陸に送り込んで、都合の良い時だけ税収を上げるやり口が受け入れられず、(特に北部の)ニューイングランドではその形成故か国王や国教会の威光よりも契約などが重んじられるところがあったのも事実です。

 ……もっともこの意見はイギリス議会からは相手にされません。先の戦いでもそうですが、軍事負担を行いつづけていたのは本国イギリスですから、応分の負担をすべきという意見はもっともな面もあります。

 このためイギリス議会は続けて、宣言法を定め「いかなる場合においても」植民地を拘束する法律を制定する権限を認めるものとしました。当時の議会はトーリー党(王党派)が中心でイギリス国王ジェームズ三世を支持しており、北米大陸植民地の権利については頓着しない状態だったのも一因ではあります。


 十三植民地群において、イギリス議会及び国王の振るまいは、有り体に言えば中央政府からの圧政にほかなりませんでした。これはアメリカの政治思想的に連々と繋がる中央政府に対する忌避感・嫌悪感の始まり、でもあったとも言えます。


 決定打は一七六七年のタウンゼント諸法で、この法案では印紙税法と異なり、英国本土からアメリカ植民地への輸入品(紙、ガラス、鉛、および紅茶)に対して関税をかけることは合法であるとの立場でした。これにより歳入を安定させ、植民地統治の財源とすることをもくろんだのですが、当然十三植民地からは猛反発を受けます。


 ――そう、これがかのボストン茶会事件の導入となるわけです。


 さてボストンでは税関吏に対する暴力から守るためという名目で英国本土から二個連隊が派遣されます。これによりボストンでは英国軍兵とボストン市民との対立が発生。

 些細な行き違いと誤解がもたらした衝突が発生し、一七七〇年の三月にボストン虐殺事件が発生します。

 虐殺、となると仰々しいのですがその実情を知るといささか腰砕けになります。英国士官が散髪代金を納めないと苦情を言い立てたのがきっかけで(実際は払われていました)、応対した英国弊が苦情を言い募る市民を殴打。これを見たボストン市民が英国軍に石や氷の塊を投げ込みます。この動乱の最中、氷の礫が当たった兵士が倒れてしまい、英国軍兵士が発砲を開始。結果的に五人の死者が発生します。正直、虐殺というからにはもっと大規模かつ遠慮のないものかと思いきや、正直不幸な衝突事故としかいいようがありません。そのため英国軍では裁判が行われますが、結果的に参加した兵士の何人かが微罪として裁かれただけだったのですが、この事件を契機にマサチューセッツ植民地では独立の気運が高まるようプロパガンダに用いられることになります。

 ちなみにこの裁判で英国兵士の弁護にたったのが第二代大統領で合衆国海軍創設の立役者の一人でもあるジョン・アダムス(John Adams)でした。

 彼はのちにこの事件の裁判について 「私の人生の中で、最も勇敢で、寛容で、人間的で、公平無私な行動であり、また国に対して行った最善の行いのひとつであった」と述べるぐらいには、まぁ、気高い行為でしたが、この事件が独立への契機になったことも認めています。

 さて、この事件を受けて英国政府・議会は幾分態度を軟化させる為もあって結果的にタウンゼント諸法は取り下げられるのですが、ただ一つ、嗜好品である紅茶についてだけは関税処置が成されます。これが火種になっていくのでした。


※指摘があり、ボストン茶会事件のパートを修正しています(2023/03/05)


 一七七三年。イギリス議会は財政危機に陥った東インド会社の支援のため、北米植民地での紅茶の独占販売権を認める茶法を成立させました。当時の北米植民地において紅茶はオランダ産の密輸品が横行していたのですが、茶法の成立により東インド会社産のものが密輸品よりも(ごく僅かとはいえ)安く提供されることになります。しかも、荷揚げの時の税金は地元輸入業者が支払うものとされていました。  政府の中では関税撤廃を求めていた者もいたのですが、これを認めてしまうと植民地に対して誤ったシグナルを生じかねないという問題もさることながら、紅茶の税金収益が植民地を統治する総督らの給料の財源として使われていたことも一因で認めれませんでした。  一方の植民地側も危機感を募らせる一方でした。オランダ産の紅茶を密輸していた商人、東インド会社から委託販売できなくなった商人、そしてこの将来的にこのような方法が他の商品にも拡大するのではないかという恐れもあり、荷受人らへの圧力が強まる一方でした。このため荷受人が辞退する形になり、結果的に東インド会社の紅茶の大半は船に積まれたまま本国へ戻ることになるのですが、ボストン港だけは事情が異なり、総督は関税を支払われるまで出航を認めず留め置かれることになります。これに愛国的急進派、別名自由の息子達が反発。船を襲撃し、ボストンの港へ紅茶を投げ込む事件が発生しました。


※修正終わり


 これがいわゆるボストン茶会事件です。

 ご丁寧に彼ら「自由の息子達」は皮肉にも先住民族モホーク族の装束に身を包むという形でした。自分たちが排除した先住民族に身を隠してというのも中々思うところはあるのですが……。

 この事件を知ったジェームズ三世のみならずイギリス議会は態度を硬化。

 マサチューセッツ植民地議会を認めず、自治権へと介入するために数々の法案を議決します。あわせて各地の植民地議会を認めず、各植民地に総督を送り込む、あるいは強権を振るう人物を就任させる人事を行います。この他、現地のイギリス軍の宿舎などを準備するのを義務づけるなどと言った数々の法を打ち出していきます。

 これがアメリカ植民地側をして「耐え難き諸法」と呼ぶ一連の法案で、イギリスとの対立を呼び起こすことになるのでした。

 このイギリス側の対抗策に危機感を抱いた植民地群は一七七四年九月、バージニア植民地議会の音頭により各植民地代表がフィラデルフィアに集まります(ジョージア植民地だけは参加せず)。

 これが大陸会議(Continental Congress)の第一回会合でした。

 彼らはイギリス議会からのこれら諸法の適用は自分たちの権利「生命、自由、財産」の侵害であり植民地議会の軽視であるという立場で概ね一致し、結果「大陸連携(Association)」として連携することが定まります。

 無論、この段階でも十三植民地側の中には穏健派も数多く存在しており、彼らは対話と譲歩をもって事の解決を望んでいたのも事実でしたが、この希望は結果的に適いませんでした。同年同月、温和かつ理想主義でもあったクエーカー教徒らの事態の収束を願う歎願を受け取ったジェームズ三世は歎願について嘲り、このように語ったそうです。


「いま、賽は投げられた。植民地には屈服か勝利のいずれかしか道はない」

 

 ――かくして衝突は確定的となるわけでした。


2023年2月4日土曜日

合衆国海軍通史 私家概要 1-2 アメリカ、その歴史について(2)

  さて初の恒久的植民地のジェームズタウンを巡る物語にはディズニーの映画のモデルともなっているポカホンタスなどの興味深い話もあるのですが、本筋ではないので省略しましょう。

 恒久的植民地となったこのジェームズタウンのあるバージニアでは以後も植民と開拓が進むことになり、十三年後の一六一九年には早くもこのバージニアで最初の植民地議会が開催されます。

 そしてもう一つの出来事もこの年に記録されています。

 イギリスの私掠船が、ポルトガルの奴隷船から略奪した二十余名の黒人をつれてきたと記されているのです。一六二〇年に行われた人口調査では黒人男性一五名、黒人女性一七名がいくつかの農園で仕えていた。とされており、皮肉にも、一六一九年にはアメリカを象徴する自治議会、すなわち民主主義と黒人奴隷という、その後のアメリカの光と影のような二つがすでに現れていたと言えそうです。


 ……ともかくバージニアを皮切りにその後も英国主導による植民地は各所に造られますが、その一方で、欧州各国も同様に北米大陸へと入植していました。

 例えばオランダは現在のニューヨーク突端をニューアムステルダムと定め、周囲をふくめてニューネーデルランドと呼びました。この他にもスウェーデンからも植民が行われます。

 とはいえ英国側の植民政策がわりと強力かつ大量に行われていったのは事実で、次第に十三にまとまった地域、自治政体をもつ植民地が並立することになりました。


 ただ一般に植民地と言ってもその成り立ちは各々、微妙に異なっていました。

 先にも書いたようにメイフラワー号に乗った人々のように――欧州で発生していたマルティン・ルター(Martin Luther)やジャン・カルヴァン(Jean Calvin)らによる宗教革命の流れを受けて発生したイギリス国教会内での改革派、つまり清教徒(ピューリタン)たちが迫害から逃れるように、アメリカ大陸へと渡り、彼らは巡礼父祖、ピルグリム・ファーザーズ(Pilgrim Fathers)と呼ばれるのですが――自発的な植民によってつくにれたプリマスのような「社会契約に基づく植民地」、バージニアのように国王の免許状を受けて社団(企業・組合)による「自治植民地」、イギリス国内の貴族が国王の免許状を受けて作った「領地植民地」など、その経緯により植民地にも違いがありました。

 ちなみに最初期の「社会契約に基づく植民地」は後に自治植民地に吸収され、最終的には植民地のほぼ全てが、国王の代理人たる総督が統治する「王領植民地」へと変化します。

 ……ただこれらの植民地の多くは経済事情も、また住民構成も異なっていました。

 例えば先にご説明したバージニアはジェームズ一世時代の特許状により植民が行われたことから王党派の流れを組む一方で、より北部のマサチューセッツ植民地は同様に企業主導による自治植民地でしたが、さらに元を辿れば自発的植民地、プリマスなどの流れがあるために清教徒が多いために契約主義的な面もあり、これが後の革命戦争へと繋がる思想的な面でのはじまりでもありました。


 一方で、ニューヨーク植民地などは、王の特許状を得たヨーク公がニューネーデルランド、すなわちオランダの植民地を占領する形で行われた他、その西方地域ではウィリアム・ペン(William Penn)が国王の免許状をもとに〈ペンの森 Pennsylvania〉、すなわちペンシルベニア植民地となるのですが、ペンが清教徒革命から端を発した理想主義的かつ穏健派でもあり禁欲的でも知られる敬虔なクェーカー教徒であったことから、かの地にはクェーカー教徒が多く移住していくことになります。無論、それだけではなくカソリック教徒、あるいはフランスのユグノー教徒などが南部を中心に植民していました。

 このように、現在の合衆国州の基礎となる植民地(コロニー)はそれぞれの成り立ちも、ましてや宗教も異なる多種多様な植民地群でもあったのです。


 これら植民地の内情はどうだったでしょうか。

 まず新大陸へ渡ってきた人には大きくわけて三種類のケースがありました。一つは先にもご説明した清教徒やクェーカー教徒に代表される宗教上の理由、あるいは経済上の理由により移民を選択した「自由移民」、そして高額な渡航費用を立替えてもらうかわりに四年など、定められた年数を決められた場所で働く「年季契約奉公人」、そして最後に重罪人などの「流刑囚」で、概ね比率的に5対4対1でした

 自由移民が比較的裕福な立場電子書籍版、家族単位で移民してきたのですが、その反面、年季契約奉公人はイギリス国内での下層階級、二〇代前半の独身男性で、故郷で職にあぶれて都市部に流入する一方だった彼らをひとまとめにして新大陸へ送り込み、人的資源の再配置を目指したとも言えそうですが、彼らの多くは人手が必要な中南部の植民地へと送り込まれることになりました。

 過酷な中南部の自然環境は病気などにもかかりやすく、渡った人々の三割が亡くなったのですが、必然と生き残った人々は免疫を獲得したせいか長命だったとも言われています。

 傾向としては北部の自由移民たちが多い地域では、家族単位の移住のためか生まれる子息の数が多く血族的な流れが強くなる一方、南部では逆に一家族あたりの子供の数は少なく、寡婦などの社会的支援などもあったために、異父母兄妹などが多く存在する家族など多く見られたそうです。後に年季契約奉公人は減少していくのですが、その結果、人手を確保するために黒人奴隷を多く使用することになるのも、こういった事情からでした。

 そして、あまりここまで触れていませんでしたが先住民族の問題はさらに根深く存在していました。白人植民地域が拡大すれば必然と逐われることになるのが彼らでした。彼らは時に協調し、やがて反発し、そして、その後ご説明する欧州各国、あるいはアメリカ植民地群との争いに否応なく巻き込まれていくことになります。

 海軍史という立場であまり関わることのない先住民族については、本書ではあまり記述いたしませんが興味のある方は是非、アメリカ史などを読んでいただきたいところです。


 のちに大半が王領植民地となると先程書きましたが、これらの植民地の統治方法はどうだったかと言うと、国王の代理人である総督の指示によって植民地議会が招集されており、イギリス本国議会同様、参議会(上院)・代議会(下院)の構成でかなりの自治が認められていました。ただ、場合によりイギリス本国の国王を補佐する枢密院により植民地議会の立法が無効とされる場合もあったようです。

 しかもこの議会は、現在の議会の役目、民衆の代表たる議員が意見や利害の対立を解消するためのもの、と言うより、地域の有力者達による儀礼的な――すでに経済的な格差により支配・被支配の階層が成立していたため――側面が色濃かったようです。

 そして植民地内の地方行政単位は郡(カウンティ)として形づくられ、郡庁がおかれ治安判事、保安官、警吏が任命・選挙で選ばれるものとされました。これはイングランドでいうところの州(シャイア)と同様でした。

 一般に植民地(プロヴィンス)の語源はローマ時代の属州(プロヴインキァ)になるのですが、新大陸の十三植民地はイギリス本国から見れば、「州」の規模である「郡」の集合体でもあるある意味、「国」のような経済・人口圏だったと言えるでしょう。

 事実、この十三植民地群は後に「邦(State)」そして「州(Sate)」と名を変えつつもそれぞれ独自の憲法、議会を有する形となるのでした。

 ちなみに現在、マサチューセッツ、そしてペンシルベニア、バージニア、そしてケンタッキーの各州は日本語ですと「州」ですが、英語ではStateではなく各州憲法で定めるところのコモンウェルス(Commonwealth)――日本語ではイギリス連邦と区別するため米国州と和訳されていますが――とされています。

 コモンウェルスそのものの語源は、民衆の「共通の (common)」「富 (wealth)」ないし「福祉 (welfare)」を意味しており、共和国(Republic)の古い言い方でもあります。つまり、彼らは合衆国内を構成する州、というより自治共和政府であると任じているのでしょう。


 また彼ら植民地の多くで、先にアメリカ大陸に住む先住民族たちからの協力もいつしか衝突が深刻となり(かつ、場合によっては植民地同士でも)争うようになったことで各植民地の住民は武装の道を選び、これが民警団(Posse comitatus)となり、民兵(Militia)となり、最終的に軍事組織が結成されることになります。

 最初の組織だった民兵部隊は一六三六年、北部のニューイングランドと呼ばれるマサチューセッツ植民地で行われた三個連隊の編制命令が最初となりました。

 ただし、先にもご説明したように、北部マサチューセッツ植民地を構成する住民の多くは清教徒であり英国本土で同時期に発生する清教徒革命同様、王室に対して批判的な立場であったことは注目しておいてください。国民の武装の切っ先は、支配者たる王と国教会へ向けられていることと同義で、これは国家軍隊と大きく違っている点です。


 さて、最後の植民地である最南部、ジョージア植民地の特許状が一七三三年に出て、十三植民地群は成立します。アメリカ西海岸の英国主導による植民地は十七世紀、ほぼ百年と十八世紀の四分の一以上を費やして、成立する形となったわけです。


 さて、概ね植民地開発が百年も続けば、バージニア植民地以外の各植民地も開発は進みました。この間、戦争や、地主のいない土地を求めて欧州各国からの移民の規模は膨れ上がり、植民地の人口増加し続け、一七〇〇年に人口二五万人だった英国植民地はわずか六〇年足らずで六倍、一五〇万人の規模にまで達します。ボストンやフィラデルフィアといった都市は拡大を続ける一方でした。

 拡大を続ければ産業その他もろもろの多くは発展します。教育方面で言えば例えば一六三六年にハーバード大学が、その後も一七〇一年にイエール大学、一七四一年にペンシルベニア大学が設立され、これらの大学は今でもコロニアル・カレッジ(植民地時代から続く伝統校)と呼ばれてもいます。これら東海岸の名門大学の学生達はそれぞれ現在で言うところの学生サークル、秘密結社を組織し以後アメリカの政財界・軍部などで大きな関係を見せるのですが、その話はまたいずれと致しましょう。


アメリカ建国直前の東海岸沿岸に広がる十三植民地です。

ただし植民地の成り立ちも住民構成も違いがあり、経済圏もまた違っていたことが後の南北戦争への遠因となります。

概ね三つの区域にわかれるのが上の図からでもわかります。


ニューイングランド

北からメイン、ニューハンプシャー、バーモント、マサチューセッツ、コネチカット)がニューイングランドと呼ばれています。この地域は農業ではなく商業、造船が盛んになります。前述したようにこの地にはカルバン派の影響をうけた清教徒が多く移民していました。


中部植民地

シャンプレン湖から大西洋に流れるハドソン川、南のデラウェア川の間にあるニューヨーク、ペンシルベニア、ニュージャージー、デラウェアは多くの国からの移民によってなりたっていました。ニューヨークは先にご説明したようにオランダ系、ペンシルベニアはクェーカー教徒だけではなく、ヨーロッパの諸宗教にも門戸を開いたことから、アーミッシュをはじめとする、ドイツ、あるいはスコットランドからの迫害を逃れて移民してきたものも多くいました。


南部植民地

バージニア、メリーランド、カロライナ(後にノース、サウスの二つにわかれます)、ジョージアの南部植民地は農作物が中心で栄えていました。初期植民地であるバージニアを中心として大規模農園が経営され、バージニアやメリーランドではタバコ、カロライナ、ジョージアでは米や染料であるインディゴの原料であるナンバンコマツナギなどが栽培され、その農園を維持するための黒人奴隷が多く流入することになります。

https://en.wikipedia.org/wiki/Thirteen_Colonies#/media/File:Thirteencolonies_politics_cropped.jpg (2023/1/6)


 このようにして北米大陸の東海岸沿いに出来た十三個のイギリス植民地群は次第に世界規模で繰り広げられることになる英仏の戦いに大きく関わっていくことになります。


2023年1月28日土曜日

合衆国海軍通史 私家概要 1-2 アメリカ、その歴史について(1)

 1.2.アメリカ、その歴史について

 アメリカ海軍の祖とも言える大陸海軍についてお話をする前に、アメリカ革命戦争に至るまでの経緯を改めてご説明しましょう……それは地形と海洋から始まるお話、なのですが。


 新大陸へと続く道

 世界史という点で俯瞰するとアメリカ大陸が発見されたのは現在、西暦一〇〇〇年ごろにはヴァイキングが北のニューファンドランドを発見して……と言われており、大変興味深い物語なのですが、現在のアメリカ大陸に続く物語として語るなら、やはり人類が海洋をある程度自由自在に航行できる術を持ち始めた西暦十五世紀中頃から触れる形となるでしょう。

 この時代、世界の中心となりつつあった欧州世界は日本で言うところの(実はこう呼ぶのは日本国内だけなのですが)『大航海時代』の時代となります。

 ポルトガルとスペインが発見した地が無条件に領土と見なされるために世界各地へ船乗りが展開していくこの時代、すでに地球は球体であり一周することも可能と考えられていましたが、これを信じたコロンブスが一四九二年に(Christopher Columbus)が西へ進んでインドだと思って到着していたのは、現在のアメリカ南部、キューバの東側にある西インド諸島の小さい島、サン・サルバドル島でした。これがアメリカ大陸発見の第一歩でした。

 もっとも、この新大陸がコロンビア、ではなくアメリカと呼ばれるのはこのコロンブスの発見より幾ばくか後、イタリア・フィレンツェ出身の探検家にして地理学者でもあるアメリゴ・エスブッチ(Amerigo Vespucci)が南米大陸、ブラジルの発見などを綴った旅行記(論文とも)『新世界』が元となったからで、彼の名をラテン語読みした、アメリクス・ウェスプキウス(Americus Vespucius)のアメリクスを女性形にしてアメリカ、と呼ばれるに至ることになります。

 とはいえコロンビアの名は現在もアメリカ大陸を指す尊称として、ワシントンDCの正式名がコロンビア特別区(District of Columbia,DC)にも使われているのはご存じでしょう。

 

 大西洋における海流の図。

 この図はその後の話に関わる重要なものになりますので置いておきます。

 これを見るとスペインを出たコロンブスが、どうして西インド諸島、現在のキューバへとたどり着いたのか理由もわかります。

 アフリカ東岸から西方へと向かう北赤道海流は、カリブ海、メキシコ湾へと流れ込み、そしてフロリダ海峡を通ってアメリカ大陸東海岸に沿うように北上し。ノースカロライナ州ハッテラス岬で東へと進路を向け、大西洋を横断する北大西洋海流となってノルウェー沖とスペイン西岸へと別れる一方でスペイン西岸へ向かう海流はアフリカ東岸を南下し、再び北西岸海流へと合流しメキシコ湾流となります。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:North_Atlantic_Gyre.png (2023/01/16)


 当時の帆船によるイギリスから北米大陸への航海日数は、有名な〈メイフラワー〉号で六六日間となっています。ちなみに船の大きさは、色々所説あるようですが、最大全長で33メートル、全幅7・5メートルと想定されていますが、この船に一〇〇名前後の乗客と三〇名前後の乗組員が乗っていたと言われています。本来二隻で向かう予定が一隻になったため明らかに過剰な人員が乗っていた模様で、過酷な船内環境は結果的に乗客、乗組員、それぞれ半数を失うほどでした。ちなみに帰途は概ね一か月、三〇日でイギリスまで戻っています。これも海流を見ると理由がわかります。

 実はこれでも当時として見れば早いほうでした。後に説明する最初の入植地、ジェームズタウンへ向かった三隻の船の航海日数はなんと四か月近くを費やしています。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Mayflower_in_Plymouth_Harbor,_by_William_Halsall.jpg (2023/01/23)


 さて、大航海時代も折り返しを迎えつつある十六世紀の中頃から、この発見された新大陸への植民が積極的に行われるようになります。

 スペインは現在の中南米、そしてフロリダ半島などを中心に植民することになりますが、一方、欧州の小国であった英国も先達に習って海外植民地の獲得を目指すことになりました。

 これは切実な理由も一つありました。というのも、当時のイギリスにおいて一五四〇年にはもう国内のほぼすべての森林資源が枯渇しており、鉄鋼業の発達はそれに追い打ちをかけていたのです。英国議会は森林資源の保護を目的に森林保護法を制定したのですが、効果は少なく一五四〇年から七〇年までの二十年間で槇の値段は倍にまでなり、貧しい人々は冬を乗り越えることなく凍死したと記述があります。

 その中で一五八〇年代に英国国内で北米大陸の豊かな森林資源を目的とした植民地化が叫ばれます。まぁ、その言い方が「多くの怠け者を雇って、天然資源を採取し、英国に輸出する」という、なんとも明け透けな言い分だったのは確かなのです。

 彼らが目標にした北アメリカ大陸への入植は幾度かの失敗を経て、ようやく十七世紀初頭の一六〇七年、英国はテューダー朝ジェームズ一世時代に成功しました。

 ジェームズ一世の特許状(許可状)を得て設立されたバージニア会社による植民地、ジェームズタウンは現在のバージニア州のチェサピーク湾、パンプトン・ローズと呼ばれる地域から川を遡った場所に開拓の一歩を記すことになります。

 三隻の船に分乗した移民達は、一六〇六年の一二月二〇日にロンドンを出航。なんと翌年四月二六日にチェサピーク湾に到着。ジェームズ川を遡上、入植地に上陸したのが五月一三日でした。入植者は一五〇名足らずと記されています。

 現在、ジェームズ川河口周辺はハンプトン・ローズと呼ばれ、この地には合衆国海軍ノーフォーク基地や、現在も艦艇を建造しているニューポートニューズ工廠がある一帯となっています。天然の良港であることがこのような開発を生んだわけです。


https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Location_of_jamestown_virginia.jpg (2023/1/16)


2023年1月20日金曜日

合衆国海軍通史 私家概要 1-1 合衆国海軍創設日は

「合衆国海軍通史 私家概要」としてアメリカ合衆国海軍の歴史をなぞっていきたいと考えています。またもや不定期連載となるでしょうが、生暖かく見ていただければ幸いです。

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アメリカ合衆国海軍の歴史の始まりはいつと定められているのか。

 少しでも歴史に造詣のある方であれば、即座にアメリカ革命戦争(独立戦争)だと答えるでしょうか。

 事実、NHHC(海軍歴史遺産センター)のサイトでは、その起源(Origin)を一七七五年一〇月一三日、大陸会議(Continental Congress)が二隻の武装商船を準備する通達を出した日が、海兵委員会(Marine Committee)を設置、大陸海軍(Continental Navy)が誕生した日であり、アメリカ海軍創設日としています。

 ただ、これもよくよく読むと、一九七五年、時の海軍作戦部長、ズムウォルト提督が海軍創設記念日として定めた――という記述があるので、はて、この「歴史」は昔からのものではないのかも。という目にもなります。実際には後に説明する一七八九年、合衆国憲法が設置され「海軍を養うこと」とされた後に先行して、税関監視艇部 (United States Revenue Cutter Service)が設置されていますから、少しでも遡りたくて……ではないのか、といういささか穿った目にもなります。

 実際問題、大陸軍はまだしも大陸海軍、大陸海兵隊は革命戦争後、一度は廃絶され、艦艇もすべて売り払われていますから、直接の繋がりはないのです。

 一七八九年の憲法制定とするか、あるいは議会が正規に艦隊に必要な六隻のフリゲート建造を承認した一七九四年一月二日をアメリカ海軍創設の日と考えるべきかとは思いますが、アメリカ海軍がそう言っているのであれば、それで良しとすべきでしよう……。

 ただそうはいっても、大陸海軍を無視して、六隻のフリゲート艦建造を承認するまでにいたる話を無視するというわけにもいきません。

 なぜアメリカ合衆国は、大陸海軍を廃絶し、そしてまた海軍として新たに設立することになったのか。そして極端に浮き沈みの激しかった一九四五年までの合衆国海軍を語るには、アメリカ建国以前から話をしなければ中々伝わらない点もあるのではないかと思います。

 とはいえ、これを史家でもない自分が語るにはいささか持て余しかねない物語となります。何しろアメリカの成立はつまるところ世界史の一部として当時の国際状況に密接に絡み合っているからなのです。

 新大陸がアメリカと呼ばれるようになり、東海岸沿岸に広く散らばる十三植民地連合(ユナイテッド・コロニーズ)が如何にして団結し戦い建国することに至るまで、何故彼らが『革命』と呼ぶのか……そこへ至るまでの物語は出来るかぎり圧縮してご説明しましょう。


 ……それでも幾分長い物語となるのですが。


「提督たちの反乱 私家概要」刊行によせて

 一昨年の年末から昨年初頭にかけて連載させていただいた「提督たちの反乱」についてのお話が同人誌となってはや半年をすぎました。

おかげ様で同人誌(ウスイホン)にも関わらず410p越えという分厚い本になったものの、無事初版及び増刷分も概ねすべてが頒布され、皆さんのお手元に届いた形となりました。

……ここだけの話、わりと「どひゃー」と転がりそうな方からもご感想をいただいておりまして、背筋を伸ばす一方、恐縮しきりのところもあります。

さて、blogでの掲載を一時終了させていただいたのは内容が大きく変化したから、という理由もありました。内容は大きく変化しているのもありましたが。

まずはblog版の連載を読んでくださりありがとうございました。

遅ればせながら、皆さまへとお礼申し上げます。


2022年12月20日火曜日

同人活動でデジタル校正・推敲をやってみた! その2 「どうやるの」

 おひさしぶりです。

すっかり忘れていたけど、ちょっとぶん投げ気味でしたので追記がてら書きますね。

さて、iPadproとApplePencil(2G)が手元に届いて、すぐさま執筆環境にフューチャーした設定開始です。アプリは色々確認済みで、試した結果、こんな感じとなりました。

1.(PCでの執筆環境)→ GoogleDocument で草稿作成。

2.(PCでの執筆環境)→ Word あるいは 一太郎での体裁設定

ここまではいままで通り。さて、ここからです。

3. Dropboxで執筆データを確保。ここでPDF出力。

4. 「GoodNotes」を使って、Dropbox経由でPDF出力データをDLしてそのまま編集状態。

  (校正/推敲開始!)

という流れになりました。これが強力すぎて笑えます。


こんな感じで、iPadにがりがり書き込めます(本当はもっとガンガン赤が入っているのですがねw) 

何がいいかって、修正で書き込む内容も簡単に修正できる、というのがラクチンですね。雑い修正内容で、やっぱりうーん、こうじゃないんだよな、と思ったらペンをダブルタップすると消去になるし、書いた内容も消去もアンドゥできるので「やっぱり前のがいいかも」ができる。これが紙のほうではできませんでしたから。

そして、一番のネックだった、「画面上でのチェック」と「紙の上でのチェック」の違いがiPadでは(今の肌感覚では)無いことが大きいです。

これ、リコー経済研究所のリンクにもあります。
「「紙」に印刷すると間違いに気づく理由」
https://blogs.ricoh.co.jp/RISB/new_virus/post_604.html

紙のほうは反射光、ディスプレイは透過光のせいで、人間の脳が旨い事、ミスをスルーさせてくれるんですね。

ただ、iPadにApplePencil用のノートっぽいスクリーンを張った状態ではあまりそれほど感じません。紙の方でもついつい疲れているとスルーしちゃうことがあったので、ここらへんはまあ個人差の範疇かもしれませんが。

で、iPadでさんざん書き込み、

5.(PCでの執筆環境)→ Word あるいは 一太郎での体裁設定 (以下繰り返し)

と相成るわけです。

正直、iPadPro + ApplePencil 舐めてました。慣れると手放せませんね。
実はその後、校正だけではなく、ペン画のアプリまで突っ込んで、今回C101向けの合同企画(は、ちょっと延期しちゃいましたけれど)用の設定図とかを書くこともできるようになりました。ペンってすばらしい!(こらこら)となっています。

ただまぁ、iPadProはわりと重いので、正直、その点はちょっといただけない……。のですが、そこはまぁ受け入れて、作業の役にたっています。

先の進捗固定ではないですが、5.のサイクルをぐるぐる回すのにためらいがなくチェックできます。C101では5回、C100の新刊ではそれぞれ3~5回、PDFに変換してチェックします。できればこれで読み上げツールもあればいいんですが、これはこの後の課題ですかねぇ。


2022年5月28日土曜日

同人活動でデジタル校正・推敲をやってみた! その1 「はじまり」

Twitterでは幾度か呟いているのですが、とうとう購入しましたiPad(pro)。
なんでまた、というのもありますが、切実な理由からでした。
話は昨年に遡ります。


ちょうど、五十鈴本を作っている時ですが、4月の間、一ヶ月をかけて出力して校正して反映して出力して、校正・推敲して、で、PC画面上でも直して、収拾つかなくなってまた出力して……と散々繰り返していたんですね。
都合四回は出力しました。
使っていた三色ボールペンも全部のインクを使い切ったりとか、ほんと大変でした。
これは夏まで手がけていた、「オタモイ山の戦い」の増補改訂版自己推敲でもおんなじノリで。となるとどうなるか、室内に出力した紙が散乱するんですよ!
そりゃ、クリップで止めますけどねーさすがにーねー。
で、作業が終わったあとにだばーっと紙ゴミで資源回収として出すのですけど、いくらなんでも環境に優しくない、なんとかせねばと思っていました。

なんでか。

というのも、今進めている二つの同人誌「提督たちの反乱」が新書サイズでページ数計算したらざっくり400P。「夕雲カナ」話が、260Pぐらい。トータル700P近く! これを紙出力!?
しかも五十鈴本を見れば、自分のボンクラっぷりだと四、五回は出力する。
おおい、って、まーじーかー! と思いましたね。印刷するコストだけでもバカにならない。
さすがに自分も色々考えました。
一番は電子校正か!という結論にそうそうに到着しましたが、どうするかが問題でございまして、それまでにも自分は色々試行錯誤していたので問題点はわかっていました。過程をぶっ飛ばして結論から書きます。

【結論】
Android タブレットと百均レベルのタッチペンでは使い物にならない。

これ、ですね、やってみたんですよ。ところが全然ダメ。試した時のAndroidタブレットの性能はそんなに良いものではなかったのですが、指はともかくペン先の反応と追随性がちょっとお粗末すぎて、アプリで書き込めるレベルではありませんでした。
2022年、タッチペンでちゃんと反応してくれるタブレットはかぎられる感があります
が、それを試してみるかと思っていたら7万ぐらいですか。
それを試して使えなかったとしたらなぁと二の足踏みますね。

というわけでどうするか、もう先達の人の話を色々を調べるだけですw

二次創作字書きにiPadはかなり良かった|長谷川ミオ @hanamio3 #note

文章書きにもiPad proを推していける

で、こういうのを読んでiPadでの可能性を模索したのは、二作とも校正作業に差し掛かる頃でした。iPadねぇ、いいけど高いよねぇ。というのがありまして。躊躇っていたんですよ。

そこへ、笹松先生が、リファービッシュ品iPadProを購入したとのツイートが。
おっ、そんなものが!

ネットで検索すると、大体二年ぐらい前の型落ちiPadが安い。フーム、これは現実的なモノになりそう。
で、Twitterでいつも話している人でまかーな人達にお伺い、iPadどうですか?

結論はだいたいこんな感じでした。
「リファービッシュ版だと安いけど、Appleははずれを引くと大変。補償が継続して効く新品にしたら?」
「Apple Pencil購入するなら当然第二世代、となるとAir か Proしかないね」
「画面サイズは予算が許せる限り大きいのにしたら」
「タブレットとは思えぬ重さでへこたれる。キーボードはまぁ、好きにしたら」

……おっ、おう。
で、実は自分もちょっとiPadのある機能に触れたかったんですよ。最新世代のproでしか搭載してないLiDER(Light Detection and Ranging、光検出測距)センサーが。

Apple、LiDARスキャナを搭載した新しいiPad Proを発表、iPadOSでトラックパッドに対応

新型iphone12proに搭載⁉ipad proのLiDERスキャンを精度検証


これ、ちょっと自分のげふんげふん分野でわりとトピックでしてね。
XYZの位置情報をもつ点群データを使って、立体スキャンが出来るっていうまぁ、民生品にまでとうとう降りてきたか、センサーです。で、これで立体モデルが出来るなら、あれこれそれとかできるよなぁとか色々妄想していて試したい。

まぁ、言い訳ですよね、こんなの会社の予算ヒネくりだせば一番いいですから。

結局、買う気マンマンでヨドバシに行ったら全然在庫がなくて、Appleストアで購入しましたよ、全部でAndroid用タブよりもお値段倍になっちゃいましたけど。iPadPro 11インチ、256Mを。べつに容量はどうでもいいと思って、これにしたんですがね。
これにカバーとペン用の書き味がペーパーライクになるという保護シートを購入。

さて、いささか脱線気味でしたが、購入までの前振りはここまで。
実際に、どうなのよって話は以下次号。