2004年12月30日木曜日

2004年の最後に(1)

こういう話はブログでは相応しくないと理解しているが、どうか赦してほしい。

この文章を読んで不快になられた方がいたとしたらことさら平身低頭するしかない。


ちょっとした記録として、の話です。長いのでご了承を。


 


ようやく雪もなくなった春先の話だ。

その電話を受けたのは、出張先からで、なおかつ間が悪いことに納品間際だった。


その時はまだPHSだったので、同行していた社員の携帯だった。職場からで、
父親の入院先の病院から危篤の知らせだった。慌てて病院に電話すると、看護婦から父親が亡くなったことを告げられた。
えらく現実感のない展開にさほど混乱せず、同行した社員に半ば言われるがまま、最低限のセットアップだけ済ませて、
JRに飛び乗って札幌までとんぼ返りする羽目になった。



父親は北海道の東部、帯広地方の片田舎の出身だった。次男坊であることからそうそうに独り立ちすることを迫られたためか、
北海道人の親族によくありがちな選択、つまり、自衛隊に職を選んだ。十勝沖地震の時の救援に赴いたことをよく酒の席で語っていたし、
M2ブローニング機関銃を扱う分隊にいたようで(詳しくは聞くことはなかったが)、当事は結構ムチャをしていたらしい。
最終的には札幌に新たに創設されたばかりの第11師団の偵察隊が最終配属先だったようだ。
部隊の立ち上がりまではいたと以前話をしていたのを思い出す。今、HPでその偵察隊を調べると第11偵察隊のようだ。

幼少の頃はちょくちょく真駒内の駐屯地に電話をかけては、
まだ部隊にいる知人と電話をとっていたことを思い出す。



父親は、よく言えば豪放だったし、悪く言えばアバウトで後先考えない人物だった。ついでに見栄っ張りなところもあった。
また思い込みと自分に対する根拠のない自信からか、まともに人生設計を考えていたとは考えられず、
決して人付き合いもいいタイプではなかった。真っ当に考えれば自衛隊にいればよかったはずと思うのだが、
そうすればおそらく自分は居なかったのか。ともかく、事実母親のぼやきも大抵は老後の心配すらしていない父親に向けられていた。



自衛隊を辞したあと、運送業に転職したため、事故品扱いになったガラクタを持ち込んではそのままにしっぱなしという、
北海道の田舎人らしいいい加減さがあった。ゴミを始末するのにさえ金がかかる。と言ってもあまり深刻ぶっていなかったし、
母親と自分はそのおかげで頭を抱えることが二度三度とあった。



また定期的といっていい割合で交通事故関係のトラブルに巻き込まれるのも家人としては閉口していた。
まともに本社づとめをしていればよかったものの、何を思ったのか、
トラックを個人で購入したために稼ぎの大半を車検やなにかと取られたことを考えると、本当にアバウトすぎて何を考えていたのかと、
今でも思うのだが。また、自家用車については自分がほとんど購入したり、保険に入ったり、車検などの手続きをしたり、本当だったら、
これって・・・と思うこともないわけではなかったのだか。


とはいえ、小学生時代、夏休みとなると自分をそのトラックに乗せて、
田舎やあちこちへと連れていってくれたのを思い出す。ニコチンの匂いに満ちたトラックの後部にある寝台スペースに横になり、
車酔いに戦っていたのもいい思い出だ。別に車の旅は苦にならなず、どちらかといえば深夜に移動しがちなのはこのせいかと思わないでもない。


酷評をつづけているが、父親は息子である自分には甘かった、と思う。
佐藤大輔風に言うことを赦してもらえれば、子供の教育に金をケチるような下卑た人物ではなかった(出来が悪いのは自分の問題であるが)。
80年代に自分が親戚に連れられてみた映画「TRON」にハマってパソコンに興味を示したときに、父親がNECのPC-6001(いや、
mk2が出る寸前だったか後だったか。ならmk2買ってくれればいいものを、
そこらへんはやっぱりアバウトだったのだ)を自分に買い与えていなければ、今、自分がこの職についている可能性もなかっただろう。


また、おおよそ、タバコ以外のことに関して、
特に酒方面は自分が幼少の頃から教え込むところがあり小学生のころから妙に酒に強くなってしまったことも父親の一因のはずだ。もう一人、
ガキの自分に酒の味を教えさせた
叔父曰く、自分の父親から悪いことを教わったから、
そのお返しとして、自分にあれこれと教えているのだ。と言っていたのだが。酒についてはたった一つ、
酔っ払っても醜態は見せるなと告げられたことを思い出す。今でもそれを守っているのだが。


また、中学から高校進学するにあたって、進路をどうするかは自分が決めた。
三者懇談の時に担任教師から散々止められたが、興味のある電子科へ進むことを選んだが、
流石に滑り止めの私学を選択するときには二の足を踏んだ。当事、自分の中ではかなりの確立で私学へ行くことも覚悟していたのだが、
両親に学費の負担をかけさせることは躊躇ったのだが、そのことを告げると父親は「かまわんさ」と一言言ったきりだった。まぁ、
大方の予想を覆して自分がまんまと最初の志望校へ合格してしまったので、実のところ胸をなでおろしていたかはしらない。



最初の職を選んだものの、
家を離れた自分が病気に倒れたときには後々母親が語るのを聞けば父親は自分に無理を強いたのではないかと後悔していたという。
確かに家を離れるにあたり、「さっさと独り立ちできるようになるくんだな」と送られたが、そう言われるとあの時病院から父親にかけた電話で、
何かを言い出しかねていた父親のことを思い出す。その件に関しては特に改めて聞くこともなかったが。


実家に戻って札幌で今の職についてから、
正月となるとあれこれ卓を囲んで二人きりで酒を酌み交わしつつあれこれと話をするのが毎年の恒例となっていた。
最近は、定年まであとわずかということだったが、運送業の担当が替わり、
中々の激務だとこぼしていたが、あと数年の辛抱だよと話しをしていたが、その時はもう病魔が確実に蝕んでいたのだろう。
えらく痩せてきていると気がついたのは、体の異変を訴え始めてからだった。腹が張り、
傷みが止まらないといわれて触ると筋肉のこわばりがあった。自分が小説やなにやらで仕入れた医学知識が頭の中で駆け巡り、
尋常ではないことに気がついたが、車に乗せて緊急病院へ駆け込むことがその終わりの始まりだった。


緊急病院の診察では、極度の便秘で硬い便が腸に固まっている状態だ。といわれたが、
それにしては傷みが続きすぎると思い、渋る父親をせきたてて次の日に近くの消化器科病院へ行き、簡単なレントゲンを取ったところ、
医師がいささか険しい表情を見せていたのに気がついた。リスキーな状態で、癌かと思ったが、その時はその時だとあまり深くも考えずに、父親に明るい口調で、「でどうするさ、
癌なら告知アリにする?」と聞いたところ「かまわん」の一言で、告知の書類にサインをした。次の検査日には自分が来るまでもないと思い、
母親に連れてってもらうように手配をしたが、これは自分の最大の手落ちだったと今では思っている。



病院から出してもらったクスリである程度は傷みが取れたらしいが、それでも体調が悪いという。間が悪くて仕事の納期が近づいており、
おまけに周囲の手際のせいでトラブル三昧だったため、自分のほうもバタバタしていたが、言い訳にはならない。流石に様子がおかしいので、
病院の宿直医に話を通して、仮入院という扱いにしてもらい、納品日当日未明に病院へと連れていった。



今でも思い出すのは、支度をしている自分をじっと見ていた父親の姿だ。視線に気がついたものの、あの時父親は何を言いたかったのか、
どうして言わなかったのか。そして自分もどうして言わなかったのか。

病院へ連れて行き、空き病室のベッドに寝かされた段階で、父親に、「まぁ、出張だけど日帰りだから、あとでな」と言って、「ああ」
と答えたのが最後のやり取りになってしまった。

帰り間際、宿直医に呼び止められ、胃カメラの写真を見せられた。どう考えても尋常ではない瘤のようなものが見えた。いささか考えたあとに
「癌の腫瘍ですか?」と聞くと「はい」という答えだった。「今すぐどうこうというシビアな状況ですか?」「それは大丈夫です」
というやり取りを母親に伝え、動揺しないように告げ、仕事が終わったら速攻で戻ると話をして、病院を出た。



そして冒頭のやり取りに戻る。結果的に自分の判断は大間違いだった。

病院に戻って、医長から事の次第を聞く。「進行性の胃癌で、ステージ4で」と言われるが、難解すぎる言い方をするのに頭がきて、
「それってスキルスですね」と聞くとコクリと頷く。スキルスであれば完治は難しく、手術も難しい。化学療法か放射線治療しかなく、
余命をいくばくか伸ばすぐらいのものだ。頭の中でいらない知識だけがグルグル駆け巡る。





父親の死に目に会えなかったのは、自分が今後生涯に負わねばならない咎だ、と思う。





それからバタバタと葬儀の手続きをこなす羽目になった。驚くべきことに父親が数日前にしたためていたという手帳には、
自分を手間取らせないためか、親族の連絡先が書かれてあり、
こんなところで用意周到さをだすなら日ごろの健康に気をまわしておけばいいのにと思うが、正直ありがたかった。

葬儀事態は
無神経な親族の言い方にも腹を立てたが、
ありがたいことに葬儀は駆けつけてくれた中学時代の友人・・・数ヶ月前に自分の祖父の葬儀を取り仕切った友人と、
金銭面の計算に明るい友人のおかげもあって、収支も正常に、親族もある程度は満足させる形で終わった。



父親が後悔のない人生を送ったかは判らない。満足していかとも尋ねることはなかった。何故なら、
そんなことを考えるにはまだいささかなりとて早いと自分の中では決めつけていたのだから。





だが、そうではないと今では考えている。




葬儀の最中、どちらにしても父親は亡くなったことは事実であり、大切なのはこれからであり、優先順位を決して見誤るな。
と何度も自分に言い聞かせた。これからもそれは変わらない。

��月に交通事故で車が横転していても奇跡的に怪我一つなかったことは何かの幸運であったとしても、
人生はいついかなるときでも終止符をうつときがある。それは誰にもわからないのだ。

生きたいと願い、死んでいく人もいれば、そうではない人もいる。不意に訪れた何かにより死ぬ人もいれば、そうではない人もいる。
死にたいと軽々しく口にするぐらいならばさっさと死んでしまえと今でも思う。しかし、それでも・・・この世には、
そういう人に対してさえ生きていてほしいと願う人もいるのだということを忘れてほしくはないが。



すくなくとも生きていくことを願うのであれば、人生を楽しみ、真摯に生きていこう。そうであることを願い、実行していこうと今は思う。




 



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