2005年12月19日月曜日

「男たちの大和」を予告編を見るに思う複雑な心境。

ここ最近、映画館に幾たびに「男たちの大和」の予告編が流れるわけですよ。長渕剛のテーマ曲と共に。TVでもそうですが。




ああ、なんつーか、もうこれ全編日本人の美意識による散り際の美学に対する結晶、ってカンジでいたたまれなくなるのは自分だけでしょうか。




無論頭の中では「天一号作戦」の、もはや作戦の名前をつけるのにも愚かしい自殺強要のような海上特攻において、
連合艦隊の首脳部の無能とか苦悩とか海軍としてのケジメをつけるがために、作戦にも値しないような艦隊行動を取るしかない、
半ば思考停止にも似た衝動に駆られていたんだろうか。とか思うわけですよ。

<大和>および<"2">矢矧>以下駆逐艦八隻による第二艦隊各艦の乗組員の命は、
日本海軍が国民に対して自らの義務を果たせなかったことに対する贖罪としての犠牲だったのか・・・
それにしても三千名近い戦死者は許容できるとは到底思えないのですが。



一方、幾度か書いていますが、この「天一号作戦」の余波を受けて(何しろありったけの油を使いますので(・・・ああ、
片道分の燃料はもうヨタ話だと思ってください。本当は根こそぎかき集めたので往復分はありました・・・
)大陸から必死の思いでかき集めた物資を運び込もうとしていた海上護衛総隊の計画は縮小されてしまいます。計画に必要な重油は7000トン。
しかしこの「天一号作戦」のために3000トンに削らされてします。

海上護衛総隊の参謀である大井篤は、あわてて連合艦隊の参謀に連絡しますが、彼の口からは

「帝国海軍力をこの一戦に結集し、光輝ある帝国海軍水上部隊の伝統を発揚すると共に、
その栄光を後世に伝えんとするに外ならず」
などといった言葉が出るばかり。そこで彼の叫びが出るわけですよ。


「国をあげての戦争に、水上部隊の伝統が何だ。水上部隊の栄光が何だ。
馬鹿野郎」
と。



日本は無資源の加工貿易により生活できる海洋国家であり、
海洋国家において海軍とは必要不可欠な血液である物資を運ぶ商船を守るがために存在しているのであり、
その目的を達する手段としての道具として、空母や戦艦があることを忘れ、ただ、
自ら一世紀にも満たない歴史を伝統と栄光としてでしか捕らえなかった海軍組織の度し難い愚かさがそこには垣間見えるわけですよ。


正直、「大和」は日本人が求めるある種の「栄光ある敗北」、「散り際の美学」を結晶にした存在です。自分も否定しません。
心のどこかで、それが誇りであることを認めている。が、それは「伝説」ではなく、「愚かしい過去」の一つでしょう。

あの日、ああいう事態になるまで海軍上層部が、ひいては国家指導者達が成さなかったことを考えれば罵倒したくもなります。
最後の大規模作戦行動だったレイテの突入を果たせていれば、まだしも海軍のまだ全うな作戦行動であるといえるでしょうが(そうなれば「征途」
作品世界のような羽目になったかもしれず、それはそれでイヤではあるのですが)、「天一号作戦」はその立案からして、全うな戦略、
戦術的必要性から生まれた代物ではありません・・・昭和天皇の「海軍は艦はないのか」発言からスタートしているようなものですから。


自分は軍オタであることは認めますが、この映画をお気楽に見るほど練れてはいません。というわけで、年末は「"http://www.lord-of-war.jp/index2.html">ロード・オブ・ウォー
を見て更にOTZになろうかと。




 



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