2004年11月1日月曜日

セカイと世界の重さ。

唐突だけれど、今週は考えさせられてしまったことがあるので、その備忘録として。
BSアニメ夜話」を見ながら、エヴァ以降「世界の危機と(極端な話)自分の彼女の危機が同レベルに扱われている」というコメントを聞きながら、ああ、なるほどね。とか色々と納得していたり考えていたり。

松本作品の「ヤマト」とかが、どちらかといえば世界の危機にフューチャーしていた側面で、どちらかといえば愛だの何だのというのは終わり際に、失礼だけど、とってつけたような感じでしかなかったりしている。
ガンダムあたりからその傾向はあったかのように思うのだけれど、確かに90年代あたりから「世界の危機も大事だし、自分達のセカイ(日常、彼女とか仲間とか)も大事なんだ」という流れになり、とうとうあのエヴァあたりで「世界の危機なんか知ったことか、誰か僕をかまってよ!(もしくは僕にかまわないでよ!か)」ってな展開になっていくわけだったりするんだけど。

それはイメージ出来る世界の希薄さなのか、それとも別に理由があるかわからないけれど、自分が思うに、接続さの曖昧さ?のようなものなのかもしれない。自分が世界にコミットしていない/する気がない/することが出来ないと感じているのかもしれないなぁ。と思う。それが悪いとかいう問題ではないのだけれど。
あとはその反面として、あるコミュニティというかお約束で安住してしまうのもあるだろうなぁ。というのもある。

そういう閉じたセカイと開かれた世界は決して相反するものではないし、常に相対している。どちらかが一方であるわけではないのだと思うのだけれど、どうだろうか。例えばパッと思いつく中で書けば、「ハチクロ」では芸大のオキラクな生活が描かれているが、実のところ言って森田を除いて変化は訪れている。そしてその変化に置き去りになる講師達の悲哀も描かれている。
「湾岸ミッドナイト」は常に外の世界からの参入者を求めていて、アキオのセカイに取り込まれ、魅入られ、対峙して、そして(彼らにとっての世界へと)降りていく。降りていかないのは、ブラックバード(それでさえ終わりは提示された)とレイナとチューナー達だけだったりする。
「鋼練」だってそうだ。あの「全は一、一は全」のくだりは個人的にも納得してしまってうまいなぁと感心してしまった。世界はあまりにも広い。夜空に広がる数々の星の光は恒星の存在であり、恒星には惑星がめぐり、そして自分達のような存在がいるのかもしれない。だとすれば自分は恐ろしく僅少な存在だ(作中は自然との対比なんだけど、まぁSFオタらしくそういう解釈をさせてください)、だからといって自分が意味がない存在ではない。自分はここに在るのだ。そうやって鮮やかに世界と自分の存在を確立してしまうのは流石だねーと思う。
ついでに書くと、「GUNSLINGER」でもチラリと書いたけど、この作品、漫画や絵の技法としては稚拙なレベルかもしれないなぁと思うことがある(最近は良くなってきたとは思うけれど)。また安易な残虐シーンをインサートしているかもしれない。読めばあまりの救いの無さに気がつく。それでも少女たちは生きている。生々しい殺害シーン、銃撃シーン、そしてアンバランスなフラテッロとの関係。なまじ同人誌版の「GUNSLINGER」を読んだことがあるだけに、あんな展開になられては余計に救いがないとは思うけれど、ともかく、彼女たちは世界の犠牲者だけれど、世界とコミットし続ける。映画を見て、家庭菜園にせいを出し、贈られるテディベアを迷惑な表情しつつありがたく受け取る。正直、うまいなぁとは思う。面白いかどうかといわれると疑問だが、そういう面白さを求める作品ではない。

結局、日常は世界と続くのだ。と思う。どちらか一方だけの存在はありえない。
なんて結論が出たあたりで、書きっぱなしで留めてしまった作品の続きがなんとなく欠けそうな気がしたし、書けなかった理由もわかったりした。そんな一週間でした。はい。ちょっとした独り言で申し訳ない。

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