プロ野球ネタだけではなく、サッカーだってそうだが、いかんせん金が無いと始まらない。地元のチームである札幌
はなかずとばずで、マスコミもすっかりと日ハム贔屓になっている。そりゃそうだ。プロヴァンチァ(地方)チームとして、ここ数年、山瀬、今野とオリンピック代表にまで上り詰めた逸材を手放したのもJ2に降格したせいだし、J2に降格したのも金でいい選手を集められなかったことによる人材の無さ故(長期的視野に立つフロントがいなかったというのもあるけれどさ)というものだ。
まぁ、サッカー、そしてここ最近の野球でも、「文化」がフレーズとして飛び出してくる。自分がこのサイトなどで取り上げる本をとりまく再販問題にも「出版文化」、好きなアーティストのCDを買うことを阻害させてくれたCCCDなどのコピーコントロールCDにも「音楽文化」、文化、文化のフレーズばかりだ。サイエンスライターの森山さんのblogは日本酒もそうだという。
「文化」とはなんと口当たりのいいことだろうか。文化について手元の辞書を引くと、
「自然に対して、学問・芸術・道徳・宗教など、人間の精神の働きによってつくり出され、人間生活を高めてゆく上の新しい価値を生み出してゆくもの。」
と書いてある。
つまり、極端な話、価値を生みだすから、存在しているのだ、と考えてもいいかもしれない(つまり、へんなたとえだけど、ある主のコストをかけたことによって生じるフロー、みたいなもの、かな?)。それは心を豊かにさせるのかもしれない、一時の享楽を与えてくれるのかもしれない。しかし、それは大多数にとってそうなのか、そうではないのか。という視野が必要なのかもしれない。
どうにも一部の「文化」を唱える人々の考えるそれとは、いままでの流れを肯定するもの、もしくは維持するものを意図しているのではないかと思う。どうも安易に「文化」と唱えれば、それは「=守るべきもの」といった雰囲気が漂う。しかし、文化はどうして発生してきたのか。グーテンベルクが活版印刷を発明(したかどうかは今は微妙らしいけれど)したことによって、それまで教会の写経のような形でしかなかった文字や言葉が遍く人々に広がったように、新たなテクノロジーによって、また文化も変化していくのだろう。そして、それを厭うものではないのかもしれない。
前にも書いたけれど、自分は本の体裁があらかじめ定まっているの事が腹立たしいし、オンデマンド出版によって書籍の情報をいかなる形にも変化してほしいと願っている(例えばハードカバーや文庫、新書の妙なヒエラルキーみたいなものは馬鹿馬鹿しいと思う。好きな本ぐらい好きな形態で読ませてほしい)、北海道だと特にそうだが、このご時勢なのに出版は首都圏で行われてわざわざ北海道まで輸送してくるコストはいかなるもので、それは北海道で電子情報を受け取って印刷することとどちらがコストがいいのだろうか、とか思うときがある。
無論、上の話は何の採算の検討もしたことのない幼稚なアイデアだとは思う。だけど、「文化」を守るべきもの。として捕らえるのではなく、「変化していくもの」として捉えていってもいいと思う。
自分が好きな松尾芭蕉の言葉に「不易流行」ということがあって、変わっていくことが変わらない真理というものがある。どっちにしても、文化を唱える前にまずしなきゃならないものがあるんじゃないかなぁ。
0 件のコメント:
コメントを投稿